毎年、冬に行われる、総会を兼ねたダンスパーティが、今年も馴染みのスナックを借り切って開かれた。

日曜日の午後。熊谷幸一は、その店に向かって歩いていた。道すがら、草野球仲間たちの顔がおぼろに浮かんでくる。

 彼らにはこの一年、熊谷の個人的な事情で、一度も会っていなかった。もう、チームを結成してから十五年が過ぎ去っていた。

 十五年前、総会が行われる居酒屋で、気の合った飲み仲間たちとの場がいつも以上に盛り上がり、誰が言い始めかは定かではないが、アルコールの勢いで、草野球のチームをつくろうということになった。それがどうにか、十五年後の今日まで続いていた。その間、日曜日には、雨が降らないかぎり、草野球を愉しんでいた。子供のように、妙にウキウキして、わざとスパイクのツメの音を路上に響かせながら、グラウンドへと走ったものだった。

それがこの一年、疎遠になっていた。自分でもそれに対するはっきりとした理由か判らない。強いて言えば、年齢的にも出かけることが億劫になった。それだけなのかも知れない。

しかし、年に一度、冬に行われる納会だけには、必ず、出席していた。それだけが、自分はまだ、チームの一員であり続けている、証のようなものだった。グラウンドには出なくても、いつでも仲間たちの傍らには自分のポジションがある。そう思うとき、熊谷は何となく安心する。

 唯、今回だけは、ハガキで届いていた案内状を見ながら、多少の躊躇いがあった。いや、今回だけではない。年々、そうした集まりに出かけることが、億劫になりつつあったことは紛れもない事実だった。

 もうすぐ誕生日を迎えると、四十二歳になる。厄年はあまり意識していないが、それでもやはり、三十代と比較すれば、微かにではあるが、心身の衰えを感じてもいた。

 大衆磯料理の大店に勤めていたが、四十歳でそこから独立して二年。業績は可もなく不可もなくというところだろうが、妻と離婚してからは、若いころには猪のように突っ走っていた気性の角も削れ、それ以上を求めるバイタリティーに乏しくなっていた。

 熊谷はそんなことを思い返し、苦笑しつつ、手に持っていたハガキを指で弾いた。炬燵の上に置かれている時計を見ると、総会が始まる時間にはまだ間があった。

 座椅子の背に上半身をあずけ、テレビを点ける。いかにも公共放送らしく、能の舞を映していた。まったく興味はなかったが、チャンネルを替えるのも面倒で、観るとはなしに、舞を観る。

 主役というのだろうか。カメラがその中での中心人物の姿を追う。その主人公を観ていても、芸の善し悪しは判らないが、中心で踊るのだから一番の手練れなのだろう。

 五人での舞だった。最後の数分、カメラが引き、全体が映り、それぞれの舞が見えた瞬間、熊谷の眼は、それまで一人だけが映し出されていた主人公の姿を見失っていた。熊谷はその現象に興味が湧き、束の間、画面を注視する。他の演者は主演者の流派に属しているのだろうか。

少なくとも主演を張る演者よりは年齢も地位も、そして舞も多少は劣っているはず、と思っていた熊谷は、他の数人の舞に埋もれて、どの人が主演者なのか判らなくなっていることに、少ながらず驚いていた。

 

 熊谷は時間を見計らい、アパートを出た。そのころにはもう、ついさっきまで観ていた、テレビ番組のことなど、綺麗に忘れていた。十二月も半ばなのに暖冬で、陽の熱は十月ごろと比べても大差なかった。道を急ぐと、躰中に汗が浮く。午後二時からのパーティだった。それから延々と飲み、踊り続ける。帰宅はおそらく、深夜になるだろう。

 一堂に会し、挨拶を交わしてから酒を浴びるほど飲み、酔っ払い、ひらひらと手を振って、それぞれの家に帰るまでの光景が、和かな日射しに乗って、熊谷の眼の前に降りてくる。

 スナックの扉を開けたとき、熊谷の腕時計の針は二時半を指していた。パーティはすでに始まっていた。飲む時間だけは絶対に守る。それが十五年前からのチームの伝統だった。

 三十分遅れた熊谷には、疎遠が続いているぶん、その伝統意識が多少稀薄になっていた。芸達者が多く、パーティの時期が近づくと、毎年、ギターを掻き鳴らすメンバーが組まれる。その日も四人の俄かバンドマンたちがギターを奏で、プロ顔負けの声量で、プレスリーやビートルズを、疲れ知らずに弾いたり唄ったしていた。

 出入り口に近い席は若手が占めていた。奥のほうから大きな声がした。見ると、監督の高瀬が手を振って熊谷を呼んでいた。

 信望が厚い監督だった。笑うと大きな声とそれに相反する細い眼の愛嬌が、周囲に安堵感を与える。様々な職種に就いている者たちが寄せ集まっているようなチームの監督としては、うってつけの人材だった。

 チームの最長老を含めた年齢的ベテランたちが、店の奥の席を独占していた。まだ若手扱いしかされていない真人という三十代の男が、まるで下僕のように古株たちの世話をしていた。

 そのほうへと歩きながら、熊谷は一瞬、見も知らぬ人々のパーティ会場に紛れ込んでいるような錯覚に捉われて立ち止まり、周囲を見回した。やがて、その理由が判った。見馴れた顔の若手たちに混じり、その日はじめてみる顔の多さのせいだった。

 彼らは熊谷の顔を見ると、一人ひとりが立ち上がり、腰を折り、挨拶してくる。熊谷も自然を装い、挨拶を返す。けれど、再び、奥のほうへ向かって歩きながら、熊谷はチームと疎遠になっていた時間の長さというものを、改めて実感していた。

 熊谷に割り当てられている席は、チームの最長老である、滝沢の隣だった。その周囲に座る懐かしい仲間たちの顔を見回しながら、水割りを口にする。その仲間たちの顔は、一見した限りでは、一年前、いや、十五年前と比べても、そう変わらないように思える。

だが、そう思えることじたい、自分もいつの間にか歳を重ね着して来て、そのお互いの変化に気づかないだけなのかもしれなかった。

たった今、通り過ぎて来た若手や新しい仲間たちのテーブルのほうに視線を向けながら、彼らの圧倒的な耀きに触れて、熊谷は改めてそう思わずにはいられなかった。同年配の即席バンドマンたちだけは、冬なのに額に汗を滲ませて、若手たちに負けないエネルギーを楽器の音に込めて、演奏を続けていた。

 店内の弱々しいスポットを全身で跳ね返し、過ぎ去った青春を呼び戻しているようだった。

熊谷はそれらを見ていて、不意に寂しくなり、水割りをぐい飲みした。店内に入ってすぐに気づいたことではあるが、それぞれが同伴で来ていた。熊谷だけが一人だった。矢継ぎ早に流れるアップテンポのメロディに誘われ、熊谷は立ち上がり、監督のパートナーである紀子を誘って狭いフロアに出た。

 ジルバを踊りながら、店内の仲間たちの顔をもう一度見回す。長老滝沢の右隣に、美しい女性が近づき、座ろうとしているところだった。

 和服を着た滝沢の隣で、その女はバンドが奏でるメロディに合わせて、全身でリズムを刻んでいる。

 滝沢は六十歳を過ぎている。三年前、還暦を迎えた滝沢に、赤いユニホームを送ったとのハガキが、熊谷のところにも届いていた。

女は三十路半ばに見えた。敢えてそうしているのか、滝沢は一言もその女と話そうともしないで、口を尖らせてそっぽを向いている。

「あの人、長老の連れ?」

 熊谷はターンをしながら、紀子に訊いた。

「さぁ、判らないけれど、でも、綺麗な人ね」

 おそらく、水商売に生きている女に違いない。紀子の口調から受ける感じでは、多分、仲間たちともその日はじめて会ったはずなのに、女は実に場馴れしていて、堂々としていた。

 はじめての場で、臆する様子など微塵もない。つねに艶然と微笑みながら、物珍しげに話しかけてくる中年男たちに、如才のない受け応えをしているように見受けられた。

「長老、奥さんは?」

「病気らしいわよ。余り、詳しいことは判らないけれど。きっと、それで、寂しいのね」

熊谷はそれ以上を訊かなかった。最初、滝沢の左隣の席に着き、挨拶をした瞬間から、熊谷はいつもの滝沢らしさがその全身から削られていることに気づいていた。

 紀子が言うには、今、奥さんが病気らしい、とのことだったが、滝沢自身、肝硬変で入退院を繰り返し、一時は危篤状態にまで陥っていた過去を抱えている。

 ジルバを終え、席に戻った熊谷に対し、滝沢は努めて、かつての自分の豪快なイメージを維持しようとしているようだった。言動の端々にそれが窺えた。

 事実、熊谷の知る滝沢は、ちょうど還暦を迎える前年ぐらいまでは草野球でも現役で、一塁守備につき、グラウンドを走り回っていた。

躰も仲間たちの誰よりも柔軟だった。酒もよく飲み、仲間との掛け合いで応酬する声も耳を劈くほどに凄まじかった。

「ウーロン茶のようですが、まだ、躰は本調子ではないのですか」

「ああ、大丈夫だ。酒も多少なら、薬になるぐらいだ」

 そう言いながら、滝沢は不味そうにウーロン茶を飲んでいた。そのウーロン茶が半分ほど減ったのを見て、

「つくりましょう?」

 ウィスキーのボトルを引き寄せて、滝沢の顔を窺った。

「いや、まだ、いい」

 滝沢は腕時計を覗き込み、五時になったら飲み始める、と言う。誰もが認める酒豪なのだ。そんな過去を振り返り、五時になったら飲み始める、と言う滝沢の横顔を眼にして、痛々しい思いだった。

 自分で自分をコントロールしているのだろうが、しかし、ずっと禁酒するならともかく、五時から飲むというのでは、それまでの反動で自然に酒量も嵩み、さらに躰を蝕むのではないだろうか。そんな気がしてならなかった。

決して全快したのではない。顔を見ればあきらかに元気なころの滝沢ではなく、何となく肌は浮腫んでいて、眼の耀きが弱くなっているように思えてならなかった。

 熊谷は無理に背筋を伸ばしているようなその日の滝沢をしばらくぶりに見て、そう思う。

 

五時を過ぎ、滝沢が薄い水割りを口にし始めたとき、監督がマイクの前に立った。相変わらずの朴訥とした口調で話し始める。

 それは前もって文書にしたためて封書で各自に送られていた内容だった。今回の集まりで、チーム名を変える案が、監督の口から報告された。

 若いメンバーが増え、少しずつ、いや、急激に草野球のチームとして試合に挑む姿勢も、試合後の反省会と称する飲み会の内容も変わりつつある、と言う。

 十五年を大きな節目として、チームの名を日本語ではなく、アルファベットを使った新しい名称にし、監督も幹部も若い仲間たちにバトンタッチしたい。監督はそう言った。

 そんな監督の意向を耳にしながら、熊谷は隣の滝沢の横顔を窺う。水同様の薄い水割りでしかないのに、滝沢は早くも酔いが廻っているようだった。

 マイクの前で、今日までの十五年もの長い時間を思い、感極まったのか、監督が目頭を手で押さえ、嗚咽していた。

時間の経過とともに熊谷からはどんどん薄れていっている青春の雫のようなものを、熊谷よりいくつか歳上の監督は未だに濃い塊として持ち続けているようだった。

「そうか。もう、終わっちまうのか」

 滝沢がそうつぶやいた。滝沢の右隣りに座る、その日はじめての滝沢のパートナーは、再び始まった演奏に熱中し、盛んに全身でリズムをとっていた。

 滝沢はだいぶ酔っている。しかも、極薄の水割り三杯で。その滝沢がフラっと立ち上がり、トイレに行こうとしていた。

 心配になり、少し経ってから、熊谷も腰を上げ、トイレに向かった。滝沢は電車に揺られているように、用を足していた。

 並んで立つと、滝沢は少し血走った眼で、熊谷の顔を見据え、

「なぁ、幸一、俺らが創り上げたチームも、十五年で終わるなぁ」

 そう言って、眼をしょぼつかせていた。体調の影響もあるのだろうが、熊谷は、まだ還暦を過ぎて数年にしかならない滝沢の顔に、朽ちかけているような老いを感じ、つい、視線を逸らした。

「いや、チームはこれからも続きますよ。唯、多少、若返るってことでしょう」

「それはそうだろうが、まだまだ、俺は今の体制でいいと思うがね。監督だって俺と比べれば充分に若い」

「でも、ボスが今日、口にするまでに、俺は出ていなかったから知らないけれど、ベテランたちとの話し合いはあったのでしょう」

「ああ、あった。だが、俺は真っ向から反対して、癪に障るんで、すぐに席を立った。二度目からはそれに関する会合には出ていない」

 十五年前はこの長老が中心だった。

監督も長老の推薦を受け入れ、一人として反対しなかった。そんな長老にしてみれば、これまでの十五年、さらにはこれから先の何年かは、形だけでも監督の上に祭り上げられていたかったのだろうか。

「ま、老兵は消え去るのみ、かも知れないな」

そう言う滝沢の背を支えるようにしながら、熊谷はトイレから出て、席に戻った。

 滝沢は還暦を機に、会計士の仕事を辞め、草野球仲間たちとの交流だけを生きがいにしていたように見えた。周囲の本音は判らないけれど、滝沢はいつも、傲慢とも思えるほどに、場に君臨していた。周囲もそれを、苦笑のなかに許容していた。単に酒飲みの集合体でしかなかったので、飲んで騒げればそれでよかったからだった。

 だがそれも、チーム内の年齢が若くなっている現状では、草野球での集まりも、飲み会をするための準備段階としか捉えていない、熊谷を含めた中年おじさんたちは、純粋に野球を楽しもうとしている若い者たちに、席を譲るのは、時の流れとして当然のことのように思われた。ベテランが我を張れば、チームが分裂する。それは遊び場を失うに等しいことだった。

熊谷はそんなことを思いながら、滝沢の顔を何度も見る。滝沢は薄い水割りを舐める度に、ため息をつく。草野球に興じ、試合後に必ず行われる、馴染みの飲み屋での酒席。滝沢は監督の上の親分でいられる、それだけを唯一の楽しみにしていた。

滝沢にとって、チーム内の世代交代は、仕事を辞めた今、唯一の遊び場を奪われ、外に追いやられてしまうような寂寥を感じているのかも知れなかった。

「実はなぁ、まだ誰にも言っちゃいないが、今年で引退しようと思っているんだ」

「草野球を、ですか?」

 一心に夢中になっていれば、引退となれば、草野球もプロ野球も、気持ちの上では大差ない。唯、その夢中は草野球の試合に毎回情熱を注いでいた人だけが感じることであり、長老も熊谷たち古参も、単なる遊びとしか捉えていない者たちには当て嵌まらない。

 そう思えば、滝沢の引退云々は、こうした酒席からの引退のように思えてならなかった。それは滝沢にとっては、チームが解体する以上の衝撃であり、覚悟だろう。

「それは、野球を辞めるってことなんですね」

熊谷は敢えてもう一度、そう訊いた。

「ああ、いや、それはーー」

「俺だって、同じようなものでしょう。この数年、一度も球場へは行かず、年に一度、こうして飲み会に出ているだけなのですから」

「そんなことじゃない。俺はチームから抜ける。みんなとの交流を断つ。そう、決めたのだ。チームに登録している俺の籍を抹消すると決めたのだ」

 熊谷にとっては、たかが草野球の集まりに過ぎなかった。たとえたった今、チームの解散を告げられようと、一向に構わない。しかし、滝沢にとっては、チームの若返りさえ、一大事だったのだろう。

 若い者たちが試合に心身を燃焼するように、長老滝沢にとっての真のグラウンドは、こうして集まる、酒を飲みながらの自分を中心とした座談の場だったに違いない。それらと対等以上の燃焼の場。滝沢にはそれがないのだろうか。熊谷はふと、そんなことを思う。いや、そればかりでもないのかも知れない。

 それはずっと気になっていた、いかにも体調が悪そうな滝沢の顔色だった。

「やはり、躰が?」

「ああ、それもあるが、けれど、そればかりでもない。俺は疲れた。本当に疲れた。だから、辞める」

「それではもう、今日のような席にも、顔は出さないと?」

「そう、なるなぁ。チームの名も変わる。監督も代わる。若い奴らが急にどんどん増えた。いつまでも俺のような年寄りがいたのでは、若い奴らはのびのびと遊べない。いや、そんなことよりも何よりも、俺は心底、すべてに疲れた」

そう言う掠れ気味の滝沢の声を聴き、熊谷の脳裏に浮かんだのは、はじめてなのにまったく怯むことなく、他のメンバーたちに見事に溶け込んでいる、滝沢が連れて来たパートナーの顔だった。

 ついさっき、監督の妻紀子とジルバを踊っていたとき、紀子はその日の滝沢のパートナーについては知らない、と言っていた。

 奥さんが病気らしい。紀子はそうも言っていたけれど、熊谷の思いはあらぬほうを向いていた。

たしかに、妻の容態がよくないことも滝沢の情緒を蝕んではいるのだろう。しかし、それ以上に堪えているのは、自分でしか感じることが出来ない、周囲からの疎外感のような気がしてならなかった。

滝沢の気性は自分に似ている、と熊谷は思っている。職場でもどこでも、熊谷もその場の中心にいなければ気が済まない質で、それを維持しようと周囲を蹴散らし、ガムシャラに働き、結果、浮いていることに気づくことがままある。

熊谷はあるとき不意に、そのことに気づいた。お山の大将に過ぎなかったことに。

だが、そう簡単に自分の性格を変えられるものではなかった。そして熊谷は、自分に対する周囲の気遣いが忖度に過ぎない、と気づいたのを機に、慕われている、と誤解していた群れを離れて独立して今に到る。

 滝沢はどうなのだろう。会計士として過ごし、それなりに奮闘していた。だが、会計事務所では事務員たちには「先生」と呼ばれはしても、所詮は一スタッフでしかなかった。

様々な事情があってのことだろうが、ついに独立は叶わなかった。そのことも多少、滝沢を屈折させていたようにも思われた。

 かつて熊谷も必ず出席していた草野球後の飲み会でも、滝沢は酔っ払うと必ず、職場での鬱憤を晴らすように愚痴をこぼし、周囲を困惑させた。

 監督たちが諫め、宥めるほど、俺があの事務所を廻しているのだと豪語し、俺はあんなところで終わるような男じゃない、と嘯いていた。そうなってはもう、監督を含めた幹部たちも対する術がなく、いつもそれ以上は熊谷に任せ、まるで腫れ物にでも触るように、滝沢との距離を置き始めていた。

(俺は小さい店ながらも、思い切って独立してよかった)

飲んでは世迷言を延々と口にする滝沢の姿に閉口しながらも、熊谷はそう思わずにはいられなかった。

 あのまま職場に居続けていれば、おそらく、滝沢同様、飲む度に、あの店は俺がいなければ成り立たない、と喚き散らし、顰蹙を買っていたはずだった。そんな中で熊谷も、滝沢の悪態に還暦を過ぎたころの自分を見ているようで、草野球の飲み会への出席も激変するようになった。それだけではないけれど、一因ではあった。そんなことを思いながら、隣で酩酊し、躰を揺らす滝沢を見る。滝沢の和服の襟元の乱れから、肉の削げ落ちた胸が覗いていた。喉元の皺が喉仏を包み込み、そこだけが息を吸うごとに皺ごと上下していた。熊谷は無言のまま、そんな滝沢の横顔を見つめていた。遠巻きの、熊谷と同年代の仲間たちの眼が、時折、熊谷と滝沢に視線を送っていた。同い歳の監督代理が、熊谷に、こっちに来い、と手招きしていたけれど、それに応じるのも面倒だった。

 熊谷はトイレで滝沢が口にしたことや、トイレを出て、席に戻ってから熊谷に吐露した滝沢の一言一句は真実だろう、と思っていた。

 それなら、この飲み会の場での、滝沢に最後まで付き合い、滝沢のこの場での死に水をとろう、との思いに到っていた。

 滝沢の思いは多少なりとも、熊谷の琴線に触れるところもあった。この場に遅れて入ったとき、出入り口の近くに座る若い仲間たちの前を通る一瞬、熊谷も自分をこの場での異邦人のように感じ取っていた。

 旧い仲間たちの顔を見ることにより、その違和感はゆっくりと遠退いた。長老である滝沢もそう感じたのだろうか。熊谷は旧知のメンバーの顔を見ることにより気持ちは癒えたが、滝沢の場合、自分だけしか感じない、旧知のメンバーたちからでさえ醸し出される眼に見えない柵を感じ取っていたのだろうか。

 監督交代も世代交代も、滝沢にとっては眼にはっきりと見える、退けようもない柵であったのかも知れなかった。

 熊谷の眼が今日の滝沢のパートナーの姿を捉えた。見ていると、フラっと立ち上がった滝沢が、嗄れ声で彼女の名を呼んだ。

 すると、それまでは滝沢を無視し、はじめて会ったばかりの他のメンバーの席で、誰構わず盛り上げ、自らも愉しんでいた女だったが、滝沢の声に反応し、女はすっと立ち上がり、滝沢のほうに、近づいて来た。その彼女の手を取り、滝沢はゆっくりとしたステップで、ジルバを踊り始めた。

 それを機に、熊谷と同年代の古株も、パートナーの手を取り、六畳ぐらいの狭いスペースで、思い思いに踊り始める。

 熊谷はその光景を最初はぼんやりと見ていて、途中、ハッとして、滝沢の姿を探していた。その中で、パートナーである女の艶やかさだけが際立ち、滝沢の姿は、白く枯れて薄くなった頭髪が、辛うじて見えているだけだった。

 一曲終えると、古株たちは席に戻ったが、滝沢は女の手を放すことなく、次に流れたスローテンポの曲に合わせて、チークダンスに移行していた。

 古株に代わって若手が踊り場に出る。若いメンバーは古株とは違い、遠慮はない。酒の勢いで気勢を上げ、スローな曲には不似合いなアップテンポでステップを踏んでいる。けれど、リズム感がいいのだろう、それが曲に合った動きになっていて、いよいよ、滝沢の姿が若いメンバーたちに掻き消されていた。熊谷はその場から眼をそむけた。

 ふと湧いた嬌声に再び踊り場に視線を移すと、北沢のパートナーが滝沢の手を振り切り、若いメンバーの動きに合わせて、全身でリズムを刻む。

 その群れの中から逃れるように、いや、押し出されるように、滝沢がその場から姿を現した。

その滝沢の疲れ果てたような顔が、踊っている女のほうへと一瞬振り返り、あきらめたように席に戻ってくる滝沢の眼は、途方に暮れているようだった。

熊谷はそうした滝沢の姿に、テレビで観た舞の主役を思い出していた。

 カメラが一人を追ったとき、主演の演者は耀き、どうだ、と言わんばかりに見栄を切っていた。カメラはその一人の姿だけを十数分、舐めるように撮っていた。だが、最後の数分、カメラが引き、全体を撮ったとき、主演者はその中の中心人物ではなかった。一人だとあれほど映えていた舞が、全体を映すことによりその中に溶け、むしろ、主役の存在などないように、脇役たちに押し潰されているように見えた。

滝沢が席に戻った。ドサッと腰を降ろし、深々とため息をついた。熊谷はまだ半分残っている滝沢の水割りグラスをテーブルの端に移し、伏せてあったグラスを手に取ると、滝沢に新しい水割りをつくった。

「いいなぁ、若いってのは」

 滝沢は呻くように、その一言を口から絞り出すと、水割りを飲んだ。喉でごくっと音がした。それまでは舐めるように飲んでいた。それが十五年前のように、かなりの量を喉に流し込み、眼をしばたかせた。

 それを見ていたのだろう。真向いの席に座っていた監督が立ち上がり、滝沢の右隣に腰を降ろした。

「父っつぁん、もう、歳なのだから、ぐい飲みはいけないよ」

「うるせぇ! 酒飲みの俺にそんなこと言うんじゃないよ」

「ああ、判ってるよ。でも、まだまだ時間はあるのだから、ペースを乱しちゃ、潰れるよ」

「潰れたら、俺は先に帰る。そのときには、この幸一に送ってもらう」

「送る人が違うでしょう。父っつぁんを送る人は、ほら、若いのと踊っている、あの綺麗な女の人」

 曲が変わり、アップテンポのメロディが流れ、若いメンバーの動きが俄然よくなっている。滝沢のパートナーは手馴れたもので、若いメンバーの真ん中で、まるで女王のように踊っていた。

全身の動きがさらに艶っぽくなっていた。

「アレは置いていく。たまに行くクラブの女で、今日のこと話したら、あたしも行ってみたい、と言うから連れて来た。おそらく、新客を掴まえようとしてのことだ。それだけのことだ」

 熊谷は何も言わず、滝沢と監督とのやりとりを耳にしていた。はだけた和服の中に、滝沢の老いがさらに際立って見えていた。

「俺は今だって、監督交代も世代交代も反対だ。おまえたちは何故、俺から楽しい遊び場を奪おうとする」

「いやいや、そんなことないよ、父っつぁん、何も、俺たちも父っつぁんも、チームを辞めるのじゃなく、球場に行けば、いつも通り、試合にだって出られる。唯、若い奴らが増えたし、古いのよりは野球も上手いし、躰も動く。そんな奴らが中心になっていくのって、これはもう、自然の流れでしょう」

「ま、それは結構な話だ。だが、そうなれば、十五年前に草野球のメンバーを集めたときの目的がなくなってしまう。俺らはあくまでも、遊びに徹しようとの思いで、このクラブを立ち上げた」

 監督はそれにはうなずきながらも、やれやれ、という顔で滝沢越しに熊谷の顔を見る。熊谷は苦笑を返すしかなかった。曲が終わり、若い者たちのダンスも終わった。続いてカラオケに移行する。ダンスが終わっても、滝沢のパートナーは、若い者たちの席に入り、悦に入っていた。

店のスタッフが、カラオケのリクエスト用紙を持って来て、滝沢に唄うように促した。それはこれまでの仕来たりのようなものだった。

 まずは一番に滝沢を指名する。滝沢はそれで気分をよくし、小さなステージに仁王立ちし、しっとりとした詞の艶歌を、耳を塞ぎたくなるような大声で唄う。けれど、その日の滝沢は、スタッフに勧められてもすぐには受け入れなかった。

「父っつぁん、父っつぁんが唄わないと、みんなだって唄えないのだから、まずは口火を切ってよ」

 監督はそう言い、立ち上がると、みんなに拍手を促した。一斉に拍手が鳴り響く。滝沢は熊谷の顔を見る。熊谷は自分なりに滝沢の気持ちを察し、スタッフからリクエスト用紙を受け取ると、いつも滝沢が唄う曲名を記して、スタッフに渡した。

「仕方ねえな。おまえが余計なことして書くから、唄う羽目になったじゃないか」

 メロディが流れ、滝沢が立ち上がる。ふらつく足取りに、監督と熊谷が連れ添うように、マイクがある小さなステージまで歩いた。

 熊谷はすぐに席に戻ったが、監督はがなり声で唄い始めた滝沢に唄い終わるまで付き添っていた。やがて歌が終わり、滝沢は唄う前よりはだいぶご満悦のようだった。傍に立つ監督の誘導で、喝采の声が飛び、店内に拍手が響いた。

熊谷はその光景を眺めながら、アパートから出かける間際にテレビで観た、伝統ある舞の画像を再び思い出していた。一人を映すと、やはり、存在感のある立ち振る舞いも、全員の中では目立たず、むしろ、脇役の数人に埋もれて見えた。それが今日の滝沢の姿と重なった。そんなことを思いながら、もう一度、ステージを見る。滝沢は監督に席へと促されるも、それを制し、若いメンバーの中にいるパートナーの名を呼んだ。近づく彼女に手をのばし、滝沢は再び、ゆっくりとしたジルバを踊り始めた。その舞はまるで、陽炎のように輪郭が薄かった。 (了)