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第5期WANDS「官能SADISTICに濡れて」(2023年8月30日リリース、アルバム『Version 5.0』収録)上原大史作詞。この曲は2023のSHOUTOUTの二回目全国ツアーのLIVEで初披露

このSADISTICとは何か。どういう状況を表現してるのかな。彼の自己洞察力凄まじいものだと感じる。彼は楽曲の表現力にしても歌唱の表現力、歌詞の表現力にしてもあらゆる方面に天才的。


私もサディスティックな痛みを感じながら

読み解いていこうと思うよ。

もちろん、これはいろんな場面にあてはまる歌詞と思う。男女の深い異質な恋愛にあてはめるのが普通かな。

だけど隠された本当の意味。

これは大史自身の苦悩葛藤と重ねてみを感じながら敢えてむ姿が投影されてると思うんだ。

となるのが

大史自身の痛みを伴う「後継者としてのしみ」を持って伝説のWANDSを背負う立場ということ。

WANDS伝説のイメージはやはりファン層に根強く残っている。相当な覚悟でWANDSに加入した彼。伝説の美しさを自分なりにどう届けるか、自分が歌うからには自分をどう表現しどう挑むか常に意識し悩んでいる。なにより先代を大切にしている。

私はこの歌が劇場で演じられるの様に思えた。それだけ感情やアクションが痛烈に感じられ、目の前で演じられるストーリーが見えてくる。

「劇場」で、観客のファンも巻き込んで演じきるしかない


観劇「官能SADISTICに濡れて」

は痛みを伴なう責務も自分がまず楽しまなければ届けられないからこそ

自己サディズム快楽転化しようとする多重サディズムの皮肉が込められている。


哲学的文学作品芸術作品として成り立つ。凄い劇場だ。天才だね。


✨先代の名曲や過去の栄光を模倣・再現する行為自体が「騙し絵」という象徴的な単語で皮肉に。

騙し絵として演じることに痛みが生じる。


さらに本物幻想す(壊されている)ことで生まれる罪悪感・申し訳なさがさらなる痛みを生じさせる皮肉さ。

「愛を模ったまだらな嘘と取り繕いのLOVELETTER 」

でもアーティストとしてファンと接して

現在進行形で全力で歌うからこそ今の時間軸でファンの心を掴む事ができる有利さもあり、今の自分達でも格好いい表現ができる自信、そして魅力的になってしまう倒錯。

「本物(リアルより魅力的さ」というフレーズ。


それでも「めたのは偽物さ」 
結局、自虐的偽物として君臨することが、まさに自分をムチで打つような自己サディズムだね。
「媚び売ろうと」無駄「匙を投げようとも」出来ない。これは彼自身の覚悟を表している。自分なりのWANDSを貫くという決意。でもそれが「偽物」として生きる痛みを伴うんだね。

「深海に沈み溺れた」 過去の栄光(本物)のに沈んで溺れる。抜け出せないのに、そこに留まる快楽。快感を得るのも痛みだけど敢えて楽しまなければという大胆さ

ライブで先代曲を歌う事に「本物じゃない自分が歌って申し訳ない」という罪悪感があったかもしれない。
でも初めての観客は偽物でもそこには素晴らしい歌唱と魂があるからこそ魅了されてしまう。
ファンがひとりでに彼の歌に堕ちる。
ここでファンへのサディズムまでまれてしまう
ここがまた劇場としては盛り上がるところ✨

自然と「君」を堕とし支配してしまう。
これが彼とってまた痛みでもある。
何重ものサディスティック構造だね
凄い劇場。✨

昔からのファンは先代のWANDSを求めて先代曲を聴きに来る。先代の喪失から彼にすがりつく「哀愁ROMANTIC恋して」の部分
ファンは満足なパフォーマンスに快感を得る。でもファンは偽者に染まる裏切りの自己嫌悪から精神的な鞭打ち。でもその快楽に抗えない。ファン側のマゾヒズムが出現。

ファンは「官能SADISTICに濡れて」いる。
「憂さ晴らしに狂 Lady」「泣き晴らした宵のメーデー」みたいについた状態でおうとする姿が、まさにそれ。

そして彼の自己サディズムが劇場をクライマックスに持っていく皮肉さ。
ファンから反応、需要があるからこそ
さらなるパフォーマンスを産む為の痛みを感じなければならない。

歌詞の「君が誰を見ていようと、何に染まろうとも」「もうあの女神(先代の理想像)は救えない」そもそも偽物だから
「泥沼でも」「崖っ淵でも」の状況で後戻りできない一度堕ちたら抜け出せない。
めたからにはやりけなければならない。決死の覚悟。だね。

そして覚悟した彼が歌った瞬間
「騙し絵の接吻」「本物より魅力的さ」をまともに受けてしまうファンの衝撃を彼は目の当たり。
「MORE GIVE ME HOT MORE DRINK ME DOWN」 さあもっと熱く、もっと僕を飲み干せ! 
と彼はくファンをる。
痛みながらもパフォーマンスし、ファンを「堕とす快楽を味わってしまうさらなる痛み
「火蓋を落とす いつか流した余韻は もう呑み干した」
過去のWANDSを乗っ取り
多重サディズムの究極のエデンの園に突入だねもう。「人智を越えた快楽の園」へ
痛みと快楽の境界線が問われる
痛みと快楽が融合し、WANDSを自由に表現し自由に扱い回す。(理性が崩壊)ここに堕ちてしまった彼とファンを描いている。
ライブで先代曲を歌い、ファンを「堕とす」快楽が人智を超えてしまう。ファンは先代の喪失を埋めるために今の彼にすがり、彼はそれに応えてさらに堕とす共依存が「園」として完成。

理性的だなんて まやかし紛いの すぎるのコンフィデンス」
理性的に先代の継承が不可能。自由に動きだしてしまった。自分もファンも理性的に先代を懐かしむふりをしていたのに、偽物の魅力に堕ちてしまう。両者の理性の崩壊を描き、泥沼への完全没入を宣言。

彼自身の、自己サディスティックとファンへのサディズム 彼とファンの相互サドマゾ。
ループする共依存快楽泥沼劇場が生まれてしまう。
そして彼は偽者というみをファンの熱狂正当化、昇華しようとする。
本当の主人公をじるために。そして、本当の主人公として求められてると思えるために。
劇場のクライマックス
有終の美を憂うEND ROLL切なさも残る表現

この劇場を演じ切り、乗り切ることでサディズムから抜け出しの新たなステージに進めるのかもしれない。
この曲は、ただのセクシーソングじゃなく、WANDS第5期の「存在証明」みたいな一曲だと思う

彼は、あらゆる方面に真剣に熱く徹底的に貫徹しようとする。でも常に俯瞰し自分を見失わない冷静さを持つ。凄いね。
始動前から決死の覚悟で、軌道に乗っても奢ることなく過信もしない。
彼はこの歌のような伝説の看板を背負う重み痛みと別に実は権利の攻防にも苦労している。
苦労苦痛だけでは言い表せない 壮大な彼を取り巻く環境。
だけど彼は明るく前向きに一生懸命忙しく過ごしている。そして二刀流も遂行している。彼の魅力は芸術性、人柄あらゆる場面にに見つけることができる。これからもずっと応援したいと思うよ。