今日は、このパウロの言葉をもって少し話すかな
なぜ善には、さとく悪には、うとくなのかな?って事
これは、善悪を反対にして考えるとわかりやすい
悪にさとくなるとは、どういう事か
1、悪魔にとらえられる魅了される。
2、裁く心が起こって、ついつい肉の力で戦ってしまう。これは、文章や便利な機械も同じ
3、悪魔の策略を知ると心でいいわけをしているが自分が悪魔の技に酔っている所がある。
4、悪魔の技であっても、ついつい便利だから使ってしまう。
5、男女関係や師弟関係で悪いと思いながら相手の意志に従ってしまっている。
etc.。
これらの事をまず自分の心に正直に聞いて欲しいのだ。
他人の意見は、もとめず自分ひとりで
善にうとくと反対の意味で考えるとそれは、愛のない状態
あなたの心に信仰にはたして愛の土台や冷静さを超える愛がありますか!
エペソ6章の神の武具を考える時
悪魔の策略に対して立ち向かいなさいとは、相手を肉的に批判や攻撃する事じゃなくて霊の世界で祈りで戦えという事だ。
そして神の武具とは、自分の信仰や心の状態そのものが反映されるから高ぶって語る事や自分を王座において語る者は、防具に穴があると言える。
そして御霊の与える剣
反省しなきゃいけないのは、御霊の剣である御言葉が私達の中にどれくらい住んでるかだ。
私達の中に無いものは、他人に対して出ないのだ。
それは、愛であっても、御言葉であっても
そして最後にとりなしです。自分が仲間のためにどれくらいとりなしているか
あなたの悪いと思う者や憎む者が悪い事をつづけるなら
それは、あなたの愛が足りない事と相手をそれほどしっかり見ていない知らないと言う事だ。
異言は、たしかに色々な要素があって神の恵みだが
あなたの心を神に知っていただきなさいとも書いてある。
私は、異言中心の教会だから思うけど
異言に馴れてしまうと異言だけになりがちなのだ。
思ったより自分の言葉でハッキリ神に対して語る事が減っている。
はたしてそれは、神に対して自分の心を知ってもらう事であり
自分を神の前に罪ある者としてみとめることだろうか
ヨハネの言葉を借りるなら、第一ヨハネ
1章8節ー10節
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は、真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神の御言葉は、私たちのうちにありません。
私達は、罪赦されただけで罪を犯さない、つねに罪が無い者では、ありません。
罪が無くなった罪赦されたという信仰も大切ですが
自分に罪が無いと思う時
人は、自分を他人よりまさっていると思うのです。
平安が主の羊にありますように
アーメン