前回のブログで遺言書を書く日本人は1割以下、9割以上が遺言書を書かない、という話をしました。アメリカでは5割、イギリスでは8割の人が遺言書を書いていることと比較すれば、非常に低い比率ですね。ではなぜ9割以上の日本人は遺言書を書かないかについて考えたいと思います。

 

①死んだ後のことを考えるのは縁起が悪い。

「遺言書?縁起の悪いことを言うな。俺はまだまだ死なんぞ。それとも俺に早く死んでほしいのか?」

子どもが親に遺言書を書いてほしい、と言ったらこんな返事が返ってくることもありそうですね。

 

遺言書を書くということは、自分が死んだ後のことを考えることです。そんなことは考えたくない、というのは人間として自然なことだと思います。遺言書を書くということは、それを敢えて考えることでもあるので、よほどの事情がない限り書かない、というのが現状なのでしょうね。

 

②遺産の分け方にこだわりがない。

遺産の分け方にこだわりがなく、わざわざ自分が決めなくても、遺された配偶者や子どもたちが話し合って決めればいいと思っている場合です。先祖代々守ってきた土地がある、受けついでほしい家業がある、等の事情があれば別ですが、都市部において会社員として生計をたてている核家族において、遺産の分け方にこだわりをもたない人が多いのは容易に想像がつきますね。

 

③自分が死んだあとの手続きまで考えが及ばない

とはいえ、都市部の核家族にも自宅や預貯金などの資産があれば相続は発生します。

遺言書がない場合は相続人全員による遺産分割協議により、つまり話し合いでどの遺産をだれがどれだけ受け継ぐかを決めて、それに基づき不動産や預貯金の名義変更などを行います。遺産分割協議書には相続人全員の実印と印鑑証明書の添付が必要であり、それが本当に相続人全員であるかどうかを対外的に証明するため、被相続人(亡くなった人)の出生から死亡までの戸籍謄本と、被相続人との関係のわかる相続人全員の戸籍謄本が必要です。

 

相続人が一人でも抜けていればその遺産分割協議書は無効です。相続人の1人が遺産分割協議書の内容に納得せず署名捺印を拒み、当事者同士の話し合いで折り合いがつかなければ家庭裁判所の調停や審判を申し立てるしかないですし、相続人の1人が音信普通や消息不明なら家庭裁判所に不在者財産管理人の選任を申し立てることが必要になり、いずれにしてもたいへんな手間、時間、費用がかかります。

 

遺言書があれば遺産分割協議をする必要がないので、不動産や預貯金の名義変更などの相続手続がスムーズに行え、相続人の手間が大幅に削減できます。遺言書は自分のためではなく、遺族のために書くものだとも言えるのです。ただ、自分自身が亡くなった後の相続手続は生きている時に経験できるはずもなく、自分の親の相続手続がたいへんだった等という苦い経験がない限り、そこまで考えが及ばないのも無理はありません。

 

④遺産の相続割合は民法で定められている(だから遺言書なんか必要ない)

「遺産の相続割合は民法で決められているので(法定相続分)、そのとおりで分けるだけのこと。だから遺言書なんて必要ない」と考えている人もいると思います。しかし実際の相続の場面では、法定相続分どおりに分けるのは困難である場合が多いです。

 

例えば不動産が遺産の大部分を占める場合がそうです。この不動産を法定相続分で分けるにはどうすればよいのでしょうか?法定相続分の面積に応じて分筆する(現物分割)、法定相続分で共有する(共有分割)、売却してその売却金額を法定相続分で分ける(換価分割)、相続した人が法定相続分に相当する現金を他の相続人に代償として支払う(代償分割)の4つの方法が考えれらます。

 

現物分割の場合、土地を細かく分ける(分筆)のは不可能ではないけれど、細かく分けると不動産の価値は下がりますし、建物はどうするのか?という問題が残ります。共有分割の場合はその後売却や建替えをしたいと思うと共有者全員の同意が必要になり反対する人が一人でもいるとニッチもサッチもいかなくなりますし、将来的に共有者に相続が発生したら鼠算式に相続人が増えて収集がつかなくなることもありえます。換価分割はその不動産を売却したくない場合は実施できませんし、代償分割は代償金を払えない場合はどうするのか?という問題が残ります。

 

以上のように不動産を法定相続分で分けるとなると一筋縄ではいかないのです。遺族が仲良く法定相続分で分けてくれるだろうから問題は起きない、という考えは幻想にすぎない、ということも十分あり得るのです。

 

⑤遺言書の作成は資産家のやることだ。

確かに何となくそんなイメージはありますよね。TVドラマにもなった遺産争いをテーマにした山崎豊子の小説「女系家族」は有名ですが、争いとなった資産は相当のものでした。そんなところからも遺言書の作成は資産家のやることであり、庶民にとっては無縁のもの、というイメージがあるのかもしれませんね。しかし実際には資産家でない場合でも遺産争いは起きています。

 

2022(令和4)年の司法統計によれば、遺産分割調停・審判の中でその遺産額が5000万円未満の場合が全体の76.3%を占めており、1000万円未満の場合においては全体の33.5%を占めています。資産家と言える遺産額1億円以上の案件は12%に過ぎません。つまり遺産争いは資産家だけのものではなくむしろ庶民においての方がはるかに多い、というのが現実なのです。「女系家族」の登場人物のような欲の皮の突っ張った資産家一族よりも、お金に困って切羽詰まっている庶民の方がはるかに多い、ということなのでしょうね。

 

ちなみにこのような遺産争いの発生は戦後の民法改正が背景にあります。

明治時代に制定された旧民法においては長男が家督相続することを原則とする家制度が採用されていましたが、戦後の民主化された日本においては家制度よりも個人の尊重と平等に価値観がシフトされ、配偶者や子供たちが一定の割合で遺産を分けるというように民法が改正されたのです。その後何回かの改正を経て、昭和56年に現在の法定相続分となったのです。つまり戦前は長男がすべての遺産を受け継ぐのが当たり前だったのが、戦後は(遺言書がないかぎり)次男、三男、長女、次女など兄弟姉妹全員が平等な遺産分けを主張できるようになったのです。もちろんこれは遺産の大小に関係ありません。

 

今回は、9割の日本人が遺言書を書かない様々な理由を考えてみました。殆どの場合、遺言書があれば遺産争いは避けられるし、不動産・預貯金の名義変更などの相続手続もスムーズに行えます。しかし遺言書を書かない9割の相続案件の多くに争いが発生しているのかと言えば全然そんなことはなく、遺残分割調停までいく比率は令和3年の司法統計をみれば100件中1件程度です。ということは遺言書がなくても何とかなっている、というのが大多数なのでしょうね。しかし遺言書があれば遺産争いを避けることができるし、相続手続もスムーズにいくことは間違いがないので、総論としては遺言書はマストではなく、あった方がベターである、ということになると思います。しかしすでに言及したように遺言書はマストである、といういくつかのパターンもありますので、次回はそのあたりを整理してみたいと思います。