つくづく自分を客観的に見ることは大事だなぁと思う。

それが自分にとって良いことでも、

他者から見たら違うかもしれない。

 

主観と客観を行ったり来たり。

まるで大きな絵を描くよう。

キャンバスに小さな筆で描きこみ、

今度は離れた位置からそれを見る。

 

どんな緻密に美しい風景を描いても、

全体から観たら少しボカした方が良いかもしれない。

他の大事な部分を引き立たすため、

あえて主張させない手法もある。

 

その絵にとって何が大事か?

人物なのか?風景なのか?

それとも、その奥にある精神性なのか?

それを作者が理解していなければ、

観る側を困惑させる。

単なる自己満足の絵画となる。

 

人付き合いでも同じことが言える。

自分の「良い」が相手の「良い」ではない。

はたまた、二人の「良い」が他者の「良い」ではない。

 

主観は中毒性がある。

自分の世界に浸れるのだ。

妄想の美しき世界…。

それが主観。

 

しかし、そこに他者が介入する。

するとそれが壊れる。

「あんた、それ違うよ」と言われる。

美しき世界が崩壊する。

それがいわゆる「大人になること」とも言える。

 

芸術や表現世界の始まり、

それは主観的でかまわない。

むしろそれが創作の種となる。

しかし、その種を開花させるには客観性が必要。

 

日差しに強い種類なのか、

1日にどれほど水をやればいいのか、

土にはどんな肥料を与えれば良いのか、

そもそも今が種を撒く季節なのか?

 

むやみに栄養を与えるだけが良いわけじゃない。

愛と混同して主観を押し付けてはいけない。

 

誰かの喜ぶ花園を、

誰かの感動する絵画を、

誰かが幸せを感じる心を、

魅せ、伝えるには客観性が必要。

 

呑まれそうになる主観の渦。

暴れ馬のよう手綱を引く。

「自分よがりではないか?」

「自己満足ではないか?」

そう何度も問う。

 

その繰り返される葛藤の中、

生まれ出た光の粒。

それが雫となり、

誰かの闇にポトリと落ちる。

 

その時、はじめて他者から見た「美しさ」になる。

表現が愛に映る。

 

主観と客観。

何ごともバランス。

社会で生きていく以上、

人間どちらも大切なのだ。