ラジオで話していると、放送禁止用語なるものが沢山あることを教えられる。
「今、チンドン屋って使っちゃいけないんですよ」
あのパチンコ屋さんの新装開店などで、盛り立てるチンドン屋さん。
ディレクターいわく、あれがダメだと言うのだ。
あとはインディアンや、エスキモーもダメ。
八百屋もダメだし、床屋もダメ。
看護婦さんは看護師さんと言い換え、スチュワーデスはキャビンアテンダントだ。
なんとも納得できない部分はあるが、世の流れと公共の放送と言った点から気をつけざるを得ない。
もちろん、僕らが日常的に「八百屋に行った」と会話するのは問題ない。
ただ、それを公に伝える側となると話が変わってくる。
僕はアーティストの曲をラジオで紹介する際に、「〇〇さんの曲をお聴き下さい」と言う。
これもやり過ぎの表現かもしれないが、同じ職業の方を呼び捨てにできない気持ちがある。
歌手でも個人名なのだ。
そして、僕が尊敬する方々なのだ。
ギリギリ「八百屋さん」と「さん」づけすることで許される場合もある。
「〇〇屋」と言い切ることはすなわち、「工藤慎太郎」と呼び捨てにすることと同じらしい。
だからまずいと言うのが通説。
(「〇〇店」と呼ぶのは許される)
まぁ言葉狩りなんて論争もあるが、やはり気は使う。
「うんこ」はダメ、「うんち」はOK。
なんだか不思議な気分になってくる。
話は飛ぶが、僕は漫才など見るのが好きだ。
中でも人を蔑む表現がない漫才が好きだ。
棘がない分、スピード感は劣るが、じわっとした笑いがある。
後味がいい。
「誰も傷つけないなんて無理だ」
そう確かに思う。
けれど、相手が痛みを感じるかもしれないと言う想像力は必要だと思う。
注射を打つ際に「少しチクっとしますよ」と言われる。
あの言葉をかけるかけないの差は大きい。
「わかってくれてる」と言う安心がある。
言葉は包帯にもナイフにもなる。
相手を包む真綿にもなれば、傷つける鋭利さも持つ。
配慮はしかるべきだと感じる。
まぁ、行き過ぎもまた困ったものだとは思うが…。