昔から、「動物に感情はあるのだろうか?」と考えてきた。

当たり前に「ある」と答える人。
逆に「そんなの考えもしないよ」と答える人。
この差に、想像力の欠如だけでは済まされない悲しみを覚える。
 
僕ら人間は言葉を話す。
もし小さな頃に母から離され、野生で育ったらどうなる?
もちろん言葉を知らず育つだろう。
 
はて、この言葉を知らず成長した人間と、自然界の動物になんの違いがあるか。
「見た目が人間だから、人間さ」
「言葉を知らないだけで、僕らと同じさ」
その通り。
けれど、見た目の違う動物にはそう答えない。
 
僕は決してベジタリアンでもビーガンでもなく、肉を食べる。
好きな飲み物に牛乳を挙げ、週に何度も皿の上に鶏肉が乗る。
「殺して食べるなんて、罪だ」
そう簡単にジャッジもできない。
 
皆、誰かの血と骨の上に立ち笑っている。
死んでゆく動物や、草木を踏み台にして「幸せ」とこぼしている。
それは事実であり、真実。
生きるとはそう言うことだ。
 
ただ、それを自覚しているか否かが最も大事なことだと思う。
快楽に耽り、自身の半径数メートルの幸福しか見えない人間になりたくない。
「生かされている」
この想いを胸に宿し暮らさねば、僕らは単なる破壊者でしかない。
 
極論となるが、人間は生きていていい生命体なのだろうか?
全ての害は人間が撒き散らしているのではないか?
 
「慎太郎はナチュラリストになったか?」
そう思われるかもしれない。
いや違う、自分の残虐さに気づいただけだ。
自分が目を逸らしてきた罪悪に、もうフタができなくなっただけだ。
 
これからも僕は肉を喰らい生きる。
何かを殺し、何かを押し退け、そこに自分の命を置くのだろう。
その悪魔を認めねばならない。
 
歌を呑気に歌っている。
それだけで死んでゆくのもいいだろう。
けれど、足元を眺めてごらん。
君のステージは墓場の上にある。
多くの命の上で歌っているんだ。
 
それを知って今まで通り生きられるかい?
それを知って「愛」を本気で歌えるかい?