茶道教室へ通い始めて2ヶ月が経った。

まだまだお点前までは程遠く、お菓子を食べ、お茶を頂くのが精一杯。
 
袱紗(ふくさ)と呼ばれる布を使い、道具を拭く。
なぜだか知らないが、この布の畳み方が複雑極まりない。
まるで、鳩が飛び出すマジックをこれからやるような奇抜さ。
まぁ、「なぜ?」は茶道につきものだからあまり意味は考えないようにしている。
 
畳の上の歩き方も、通常の徒歩とは違う。
ちゃんと歩数が決まっており、お能のようにすり足で進む。
「あれ、何歩目だっけ?」
まるで自分がスゴロクの駒になったように、畳の上を慣れるまで繰り返し往復する。
 
「茶道楽しい?」
僕が習い始めたのを知る周りの知人から聞かれる。
「うん、面白いよ」
そう咄嗟には答えるが、その後僕の頭の中で一人ごとのように次の言葉が続く。
「面白い…はずだよ」
 
これは何も、茶道が楽しくないから言っている話ではない。
今は単なる型を覚え込む練習をしているだけなのだ。
本当の楽しみは、客人とお点前をする者との心のやりとり。
 
例えるなら、サッカーの試合をやらず、ただリフティング練習をしているようなもの。
野球の試合をやらず、バットをずっと素振りしているようなもの。
そう、これからが本当の茶道なのだから。
 
最近僕は思う。
茶道は、いわゆる入れ物。
その入れ物に、人それぞれの人生観を注ぎ完成する舞台。
だからこそ、深い人生を生きた者であればあるほど、茶道に極みを見ることができる。
 
花が生けてある。
ある者からしたら、単なる花。
しかし、見る者が見たら、心のひだを撫でられ、涙が出てくるだろう。
ほんの少しのお点前の気配りに、感ずる人は心震える体験をするだろう。
 
だから茶道は「大人の遊び」なのだ。
若輩な僕が、言い切ることに無理があるが、確かにそうなのだ。
子供は説明されて、ようやく楽しみを見出す。
しかし、大人は自分で楽しみを見出す力を試される。
 
単なる田舎道を描いた絵に号泣する人もいる。
単なる味噌汁を飲んで号泣する人もいる。
それは、その人の中にある悲喜交々の経験が蘇り目頭を熱くさせているのだ。
 
だから茶道はわかる人にはわかる。
わからない人にはわからない。
 
僕は何を見るだろう。
茶道と言う小さな箱の中で、何をいったい見るだろう。
これからが始まりであり、永遠に終わらない旅に出発したと言える。
 
大人の遊びはエッチなことだけではない。
品性の極みと想像力を爆発させた、自己と向き合う遊びもあるのだ。