一日中寝ていたりする日もある。

なんもやる気がしない、そんな日。
 
前までは、そんな日を過ごすと罪悪感を感じてしまっていた。
けど最近は「体が休まってよかったね」と自分に言えるようになった。
 
最近ふと、この罪悪感と言う言葉がすごく気になる。
悪い意味で使われる場合が多いが、考え方を変えると、物凄い人生のキーワードになったりする。
 
人に話せること、話せないことが生きていると生まれる。
やってしまった大失敗。
男女間の話、病の話。
お金の話や、家庭環境の悩みなどなど。
フツフツ溜まるそれは、いつしか心のバケツいっぱいとなり、表へこぼれだす。
自由に生きる人を見てひがみ、ゆとりのない人、許せない人に成り果ててしまう。
 
そんな時、自分の悩みを話せる人がいたらどんなに助かるだろう。
では、話せる人とはどんな人か?
そう、それは罪を共有できる人。
同じ悩みを持ち、なおかつ乗り込えた人。
 
僕が冒頭で「一日中寝てしまう日がある」と書けるのも、
「それも人間だ」と言う自分を許せた気持ちがあるから。
「こんな自分じゃダメだ」と思い続けていたら、
カッコつけて隙のない自分を演じるだろう。
 
自分の罪悪感を許せるからこそ、他者の罪も許せるものだ。
 
やりたければやればいい。
それがどうなろうと、自分で責任をとればいい。
誰も止めはしない。
止めているのは、自分の罪悪感だけ。
 
包容力とは、他者の罪を許せる度量を言う。
人間の業を受け止める度量を言う。
 
「悪人こそ救われる」と説いたのは、浄土真宗の親鸞。
若い自分には理解しがたい教えだったが、今ならなんとなくわかる。
罪を負い、それを昇華し、自分を許し、
他者を許せた者こそ愛の人に成り得る。
 
一日中寝て過ごすボンクラが、何をほざくと言われそうだが…。
自分の罪悪感を人にこぼせると言うことは、自分も少し成長したと言うことだ。
 
大きな人になるために、怠惰もまた一つの人生経験だったりする。
しっかりしてるだけでは、人間の幅は広がらない。