「歌うことに意味はあるのか?」
元も子もないような疑問を時に抱く時がある。
「生きることに意味などあるのか?」
そう自分に問うようで、考えたところで答えが出るわけでもない。
誰もがそうだ、ふと壁にぶつかった時に立ち止まり考える。
仕事、夢、今の暮らし。
自分のしていることが、ふと無意味のように感じ虚無感に襲われる。
生まれて、生きて、死んでいくことだけがただ目の前にあり、
この世で積み上げるものなど砂の城でしかないのではないか…と。
僕の最大の敵、それは虚無感。
こいつとどう向き合っていくかが、一生の課題のようだ。
五木寛之さん筆の「親鸞」に、こんなことが書いてあった。
―
ある旅人が夜の闇の中、山奥で迷う。
遠くに民家だろうか明かりが灯っている。
しかしそれは遥か先で、歩けど歩けど辿り着けそうもないように思えた。
心身ともに疲れ果てた時、雲間から月の光が差す。
山間の道を照らすように、それは煌々と照った。
民家までの道のりの距離は変わっていないのに、なぜか旅人はもう一度歩き出す元気が生まれる。
道を照らす月明かりが差しただけなのに…。
"南無阿弥陀仏"と唱えることで浄土までの距離は変わらない。
しかし、月明かりのようにそっと背中を押す"何か"が得られる。
それが信仰というものなんじゃなかろうか?
―
僕はこの例えを読んだ時、衝撃が走った。
食べてもお腹が膨れない歌というものの意味を指し示されたようで、胸の底が熱くなった。
みんな迷える旅人ならば、歌が月の光のように足元を照らす明かりとなればいい。
それだけでいい。
虚無感に襲われた時、僕はこの月の明かりをイメージする。
みんな怖い、みんな寂しい、みんな孤独だ。
人生に答えなどない。
しかし希望は捨てちゃいけない。
こんなことを言ってはいけないかもしれないけれど、僕は歌を自分のために歌っている。
人一倍寂しがり屋で、怠惰で、臆病な自分を励ますように。
「闇を照らす光となれ」と。
僕は歌を信じている。
歌の力を信じている。