●岩波書店 1984年 小田実「毛沢東」の208ページは、思わず失笑を買うページだ。
小田実は尊敬してやまない毛沢東の本を何度読みなおしても、探しても、「朝鮮」「ベトナム」「カンボジア」「インド」などの後進地域の共産主義者とr連帯する必要がある、とただの一行も書かれている文章を探し出せない事に困惑している。
よほど、残念でしかたがないらしくて、何度も「実際、それは不思議だ」とか、「ほんとうにどうしてだろう。」と繰り返している。まるで迷子になって、なんでなんでと親にぐずる子供みたいで、失笑をさそう。
しかも、「まして朝鮮人同士のことになると」と、もともと、中国人が朝鮮に関心がないからこそ、事実上、毛沢東は、朝鮮に言及していないに決まっているのに、なんでなんでと繰り返している。
しまいには、「それとも、後進地域のプロレタリアートと連帯しなければならないというのは、当然すぎて、人びとにわざわざ告げる必要がないということか?」と、必死で、毛沢東が、朝鮮にもともと関心がないという冷酷な答えを避けている。
そして、しまいには、小田実は、非常につごうの悪い毛沢東の言葉を見つけてしまう。
うわっ、と思わず声がでてしまったろうな、という毛沢東の言葉だ。
毛沢東は、1936年のエドガー・スノーとの対話で、朝鮮について、「満州は取り戻すが、中国の植民地だった朝鮮はいらない」と言っているのだ。
いやー、さぞ小田実はびっくりしただろうな。
小田にとって、もっとも信頼のおける、世界共産主義革命の英雄、毛沢東が、「中国の植民地だった朝鮮はいらない」と言っているのだ。いったい、どう解釈すれば、これを良いように解釈できるのか。悩んだろうな、小田実は。
小田はこの、毛沢東の言葉を「奇妙な歴史の解釈」と言っている。
ばかだねえー。中国にとって、朝鮮は長い間の属国で、属国ということは、言い換えれば、植民地と言いはってもおかしくはない。毛沢東があつかましい場合は、まったく「奇妙な解釈でもなんでもない。
小田は、「奇妙な解釈」と、言っておきながら、「その問題は不問にしても、」と毛沢東の冷酷性を直視しようとしない。毛沢東おとうさん、なんか、わけがあるんだよね?まさか、あなたが、意地悪なはずないものね?というわけだ。
小田は、毛沢東が、「もし朝鮮人が日本の帝国主義の鎖から逃れたいと望むなら」という言葉に驚く。なぜ、「もし、望むなら」という仮定なのか。なぜ、「もちろん、望んでいるので」ではないのか、と。涙ぐましいほど、毛沢東さんは、朝鮮の悲願を知っているはずなのに、なんで、「もし望むなら」なんて、つれない意地悪を言うの?と甘ったれた少女みたいに、よよ、となきくずれて見せている。
そして、朝鮮は中国革命のために血を流し来た、とうなされたように執念ふかく、書いている。姜 尚中もはだしでにげだしたくなるような、ものすごい朝鮮愛だ。もはや、日本の貧困大衆も中国人民も忘れて、朝鮮は中国革命に無私に連帯した連帯したと繰り返してうなされたようになっている。しかし、26ページで、在日朝鮮の妻とともに、中国共産党の案内人に、「延安の朝鮮共産党の人たちがいた洞穴はどこですか」と聞いて、「朝鮮人がいたなんて、聞いたこともない。」と冷たくあしらわれているのだ。
いや、小田実はほんとうに気の毒になるほど、朝鮮人はいかに、中国につくしたか、と日本の読者にむけて、書きはじめる。だってだって、朝鮮人はえらいんだよ、と。
小田実の朝鮮人弁護は次のとおりだ。
1,朝鮮が独立しても、帰らず、人民解放軍に残った朝鮮人がいた。(えらいねー)
2.北朝鮮に少しの危惧もなしに、祖国に希望が持てる時期に、あえて、中国革命を応援して、蒋介石軍と戦った。(えらい、えらい)
3.小田は、祖国に帰ってもよかったのに、どうして、中国人民解放軍に残って、蒋介石国民党との戦いに向かったのですか?と聞いた。
すると、その答えは、「世界の反動と戦うのは、どこでも良いと思った」という英雄的な答えだった。(えらいなぁ)
そして、とうとう、小田は無念そうに、毛沢東は、ソ連との共闘の重要性は言っても、朝鮮が共闘してくれた、とは事実、言わなかった、と・・・さびしそうに、書いている。
わたしには、共産主義には、なんの思い入れもなく、オウム真理教みたいなものにしか感じないので、小田のこのひとり相撲の悪戦苦闘には、ただただ呆れて気の毒な気さえ覚える。舌打ちしたくなるのは、日本の極貧層には、まったく関心がなく、きちがいみたいに、朝鮮人は、つくしたのに、つくしたのに、と必死なことだ。
ふざけるな、と言いたい。
戦後民主主義者は、この小田実の「毛沢東」212ページから214ページの異様なまでの朝鮮への恋慕を、よく確認してみるがいいのだ。
この章の次に続、の民族主義の考察が次第に、はげしく、小田の馬脚をあらわしはじめる。
小田は、事もあろうに、「カリブやアラブ世界やアフリカの無名の小さな民族の文化が、西欧の文化と中国の文化と同じ価値を持って登場してくることを予測していただろうか?」と書いている。
いや、これほどまで、小田が思考力のない作家だとは、予想外だった。
世界の人類は、アフリカの、まるで共産主義とも、いや、キリスト教、イスラム教とも、まったく、無縁な、裸に近い暮らしをしている人から、世界先進地域の洗練された文化人まで、人間の生涯として、価値は同等だろう。
しかし、朝鮮文化と西欧文化が同等だなんて事はない。
小田は「被圧迫民族の文化が」「西欧と同じ価値をもって、登場する、」というがまったく馬鹿馬鹿しい。西欧の文明をなめているとしかいいようがない。
朝鮮文化は、儒教と風水の迷信ではないか。なにが、「被圧迫民族の文化が」世界変革に登場する、だ。
小田は「被圧迫民族の文化」「文化」と文化にこだわる。文化が生きているわけではなく、人間が生きて、さまざまな、愛を育んだり、個人の夢想を紡いで生きていることを知らない。「民族特有の文化」にかかわらせる必然性はなにもないのに。
アラブ世界の文化って、なんなのだ。パキスタンの文化って、なんだ?マララさんみたいな少女を学校に行かせない、不倫した女性を、顔だけ出して、石を投げて打ち殺す文化じゃないか。
朝鮮の文化は、甲と乙の身分差にこだわる文化ではないか。
が、個々の人間の価値は、同等だ。小田は、文化の価値のを直視できず、どの国の文化もみなよし、とはしょる。
そして、小田は、「第三世界の国家、民族が自前の革命闘争の原理、理論を持つ事を認めようとしない」今の中国、と書いている。それは、文化ではない。
マルクスのレーニンによる解釈がロシア・マルクス主義だったように、各国には、各国のマルクス主義者の解釈がありうるだろう。それは、民族文化というものではなく、地域の特殊時代的なマルクス主義のあてはめであって、民族文化ではない。
小田はニカラグアの革命家が、毛沢東のやりかたを真似して、途中でそれを放棄して、そうした方法を捨ててニカラグア革命に成功した、という。
この小田の言い分と、「カリブやアラブ世界やアフリカの無名の小さな民族の文化が、西欧の文化と中国の文化と同じ価値を持って登場してくることを予測していただろうか?」という小田の言葉を重ねてみると、小田が「民族文化のちがい」と、「政権奪取の戦術の違い」を取り違えていることがわかる。
●小田はいっぱしの思想家みたいに、毛沢東の著作の中に労働者の問題をまとみに論じた文章がない、という。
いいかげんにしやがれ、と思う。では、フィリピン共産党の指導者、韓国の左翼の思想家に「労働者の問題を深く論じた」文章はあるのか?と小田に言いたい。(小田はもう、故人だが)
もともと、マルクス、レーニンくらいまでで、あとはどんどん通俗化していって、箸にも棒にもかからないガラクタ思想になったのが、マルクス主義なのだ。だから、毛沢東が
「労働者の問題を深く論じた」文章がなくても、当たり前。なら、第三世界の政治思想にマルクスなみにすごい考察が出てくるか、といえばそんなのはない。
だから、西欧思想をなめているんだ、小田は。
というのは、第三世界の文化というが、西欧思想は、ギリシャ哲学、ニーチェ、実存哲学などの蓄積の果てになっている。朝鮮にも、中国にもあるのは、四書五経、仏教しかないから、人類の歴史を構造的に把握する能力が出てこない。
血筋としての、韓国人も、日本人も、西欧文化を把握してうえで、乗り越えるしかない
。民族文化から、いきなり革命思想なんか、生まれはしない。
● 1936年に毛沢東は、「外モンゴル共和国は、自身の意思で中国連邦の一部になるでしょう」と言った。(「朝鮮は中国の植民地だったが、いらない)と。
だいたい、こういう毛沢東の言葉は、結局毛沢東が凡人で口からでまかせを言っていたことを結論づけているのだが、小田実はなにやら、深淵に臨むように、中国の発行する地図には、外モンゴルが中国の一部とされていて、怒っている人を見たことがある、とすっとぼけた事を書いている。
なんのことはない。支那人には、清朝の版図も、元の版図も、皆中国の版図に見えてしまう超歴史ロマン主義がるからにすぎない。もともと、マルクス主義の通俗化なのだ。
ソ連以来、すべては・・・。
それがわからずに、小田は、なんで中国は、少数民族を尊重できない、と悩んでいる。
だが、この中国の少数民族蹂躙は、満州を蒋介石が、北伐で併呑し、中華人民共和国が中華民国から、ウィグル、チベット、内モンゴルへの欲望を引き継いだ事から、始まったことで、毛沢東の思想の欠陥でもなんでもない。
中国人の独特の超大国願望なので、マルクス思想の欠陥とも関係ない。
もともと、マルクスは、生産力の十分発展した社会の革命を想定したのだから、ロシア、中国、後進国は、皆、マルクスとは、関係ないのだ。
小田は必死に、「少数民族の意思を大事に」と繰り返すが、なんのことはない。それとマルクスはなんの関係もない。少数民族はいくら革命らしき真似事をしても、結局は、最終的に世界最先端の技術先進国日本の技術移転を受ける日が来るのであり、また、日本自体、知らず知らず、マルクスの夢見た世界ににじり寄っている。すなわち、昔の王様のように、庶民が、エアコンを使い、休暇が多くなり、安価に病院に行けるようになってきつつある。芸術鑑賞ができる人間が多くなっている。
「毛沢東の著作に社会主義社会どうしのいがみあいを解決するヒントがない」という。
当たり前である。毛沢東は、単なる後進国の下克上現象にすぎず、なにも革命思想でもなんでもないことは、オウム真理教や創価学会が、たいした宗教ではななく、単に新興宗教の詐欺みたいなものだったからだ。
マルクスの思想は、まず、日本とアメリカのように高度技術の獲得を成し遂げつつある社会ではじめてできるかどうか、というもので、たぶん技術発展は、さらに必要なのだ。
これは次の事を意味する。テレビがなかった頃、インターネットが無かった頃は、ルーズベルト大統領が、国民に秘密で核を開発したり、国民の知らないところで、残酷な戦争が行なわれても国民は知らないで、戦争勝利と喜んだ。ところが、インターネット社会、テレビ社会に報道の自由がプラスされると、国民は瞬時に、政府の行った戦争が耐え難い悲惨な結果をもたらしていることを知って憤激して、時の政府に不信任を突きつける。
ところが、これは日本のように、電力の安定供給、国民の大多数の読書習慣、テレビ報道の自由、インターネットの普及などによって可能なのだ。
つまり、韓国には、反日教育、日本文化の遮断、青年の読書習慣の欠如・・・等、この条件が弱い。
中国には、思想統制、インターネット監視がある。
日本は、もし、朝日、毎日、NHKのような低脳歴史観が解消していけば、技術と個人の自由が融合した人間世界の未来につながるモデルにちかづきつつあるといえる。
もっとわかりやすく言う事が可能だ。
いま、北海道や秋田あたりの親が倒れて、介護生活に入ったとしたら、東京の中央区千代田区周辺の大きな図書館で入手可能だった図書は、非常に借り入れが困難になる。
しかし、電話が携帯になり、携帯がスマホになった。ビデオがDVDに、DVDがインターネット動画になった。インターネットテレビで遠隔地の人間の病気診断が可能になった。・・・このように、多様な技術の急速な発展は、どんな地方にいても、国会図書館の蔵書を極めて安価なコストで自在に検索してアクセスして、相互批評が可能になるかもしれないのだ。これは、権力による個人の監視を、個々の個人の自由なつながりが批判仕返す可能性をも意味する。
日本とアメリカの「世界最先端の個人宅配向け配送システム」の今後の発展も、「図書の取り寄せ」に寄与するかもしれない。また、その注文も、到着確認も、インターネットによって可能になるつつあることは承知の通りだ。
世界各国の映画、ドラマ、ニュースを自在に、キーワードに応じて内容を、限りなく無料に近いコストで確認できる時代がくるかもしれない。日米戦争時代、日本人もアメリカ人も、おたがいに鬼畜米英、イエローモンキーと言い合っていたが、映画、小説を翻訳して見たり、読んだりするようになって、いまでは、大災害になれば、お互いに胸を痛めて、気遣うようになった。
こうした事が、後進国では、いかに、社会主義革命をしても、実現する事ができない事はいうまでもない。平均所得が低く、自由になる時間がなく、電力供給が不安定なら、他国の実情をよく知ることも、自国の遠方の同胞の事情も理解できないからだ。つまり、技術発展と権力批判とは、大きな関わりがあるのだ。
反共、高度資本主義の自由社会のほうが、マルクスの人間解放の道につながっているのであり、中国や北朝鮮の社会主義は人間解放にいきつかないのだ。
また、韓国の民族教育の日本帝国主義批判の嘘と誇張も、人間の精神の自由の反対物だ。
なぜ、高度資本主義だからいいか、というと、資本蓄積が、基礎研究、応用科学研究などにコストをかけることを可能にするからだ。
また、日本の場合、伝統の職人ワザと最先端の科学技術がコラボする現象も見られる。
だからこそ、小田実が、第三世界だの後進国の民族文化に過剰に思いいれをしても、無駄なのだ。というのは、社会主義革命をしても、技術の民衆への全面的普及がなければ、民衆が主人公になって、権力の実態を把握し、リコールする事ができないからだ。
小田実は、死ぬまで第三世界の貧困、飢えた人を救う方法は、社会主義革命、民族尊重、だと思っていた。だが、第三世界の貧困を救うのは、高度資本主義が可能とするエネルギーコントロール、バイオ開発、品種改良、高度医療技術の低コスト化、インターネット普及のさらなる低コストと普及。空気浄化装置、水浄化システムの低コスト化、リサイクルシステムの高度化だ。まったく、なんぼ社会主義革命をしても、これらの技術がなければ、貧困、飢餓、を救えるわけがないし、だれが困っているかの情報も得られないし、瞬時移動して救済にいけないのは、至極当たり前ではないか。
その意味で、原発も、技術的に乗り越えて、より確実なものを作って、第三世界にしっかりした安全装置のついたものを安く設置してあげるべきなのだ。
昔、野口英世の母は、女でひとつで野良仕事をして、育てた一人息子の英世に帰ってきて、顔見せてけろ、と懇願し、野口英世は胸つぶれる思いで、母を捨てるようにして医学研究に向かって行き、野口の母は二度と息子の顔を見ることもなく、旅立った。
それがいまでは、パソコンでテレビ電話のように、相手を顔を見ながら、笑顔で会話でき、急用があれば、高速の航空システムとリニアモーターカーで帰郷することも可能であり、親やこどもと会う事が可能になってきた。
どんどんそのコストも低価格化している。いかに、高度資本主義が、人間の幸福に関係があるか、わかろう。
ならば・・・なんのことはない。侵略と植民地、謝罪と賠償が、人間の解放に、なんの関わりがあろう。
ちなみに、世界の技術特許は、過去20年以上連続して日本とアメリカが世界の過半数を開発し続けている。
●ところで、土曜日のTBSの夜10時の、ビートたけし、出演のニュースショーを見ていたら、韓国は、反日に疲れてきた、という。
しかし、おさえておくべき基本は、韓国には、労動組合を中心とする親北朝鮮派がいて、かならず、韓国経済の危機は、労動運動の激化を招き、親北左派勢力が政権に入る可能性が常にある。
パク・クネは実は、あれでも、野党よりは、まだましなほうなのだ、と明確に意識しておくべきなのである。反パク・クネ派の野党は親北左派で、パク・クネの数倍タチの悪い左翼民族主義者なのだから。
北朝鮮との統一問題が日程に上る。その時、歴史認識を積み残しておけば、かならず揺り戻しが起きる。
どんなことがあっても、北朝鮮を韓国に吸収する際のコストを日本が負担するべきではない。
日本人の内部で、徹底的に歴史認識を究明しておかねばならない。
● 小田実は、彼の著書「毛沢東」のあとがきで、「わたしは毛沢東のようなマルクス主義者ではない。」と書いている。いいだろう、マルクス主義者ではない。けっこう。小田実のように、日本には、あきらかに社会主義政党に同伴しながら、「マルクス主義者ではない」と発言する手合いはいる。
わたしは、「マルクス主義者ではない」とはけっして言うまい。
「わたしは、反共産主義者である」と、言わない者を信用しないのである。
わたしは、第三世界の革命を否定する。が、社会改革は肯定する。
要するに小田実のような市民主義者は、「わたしはマルクス主義者ではない」とは言うが、まちがいなく、北朝鮮の社会主義を肯定した。その証拠に、朝鮮戦争を民族解放戦争と呼んだ。
そこで、わたしは、社会主義革命を否定するし、朝鮮戦争を民族解放戦争とも思わない。
中国に対し、離脱闘争を仕掛け、ウィグルやチベットが独立し、その政権が、多党制の普通選挙、資本主義制度の言論の自由にある国家なら、応援する。
だから、「マルクス主義者ではない」という言葉になんに価値もない。
問題は、「言論の自由」「多党制」「普通選挙」「資本主義」「歴史の嘘を正すため、歴史修正を認める」国を肯定するかどうかが問題なのだ。「市民主義者」「戦後民主主義者」よ、だまされんぞ、おれは。(歴史修正を認めない、という態度がアメリカのリベラルに存在する。それ自体、言論の自由と相互説得原理の否定だ。)アメリカにおいても、この言論の相互説得原理が腐敗衰退しないよう、つねに注意が必要なのだ。
日本には、「わたしは、マルクス主義者ではない」とは言うが、「わたしは反共産主義者だ」であり、中国、北朝鮮、韓国国内の左派を敵視する、とは、言えない者がかなりいるのだ。
小田実は、「わたしはマルクス主義者ではない。しかし、資本主義を否定する、社会主義革命を肯定する」とも言わないし、「わたしはマルクス主義者ではない。だから、共産主義を否定する。」とは言わないことにおいて、極めて不誠実、卑怯な知識人だった。
そういう論理に気がつかない、頭の悪い男だった。
小田実は、「わたしは、マルクス主義者ではない」と言った。が、「ゆえに、多くのマルクス主義国、政党の反王室、反皇室主張に、反対だ」とはいわなかった。
また、多くのマルクス主義政党が採用する反宗教政策に反対だ、とも言わない。
また、ロシアマルクス主義を起源とする「帝国主義侵略戦争論」を援用しない、とも言わない。小田は、「ロシア・マルクス主義を起源とする帝国主義植民地収奪論を盛んに援用しながら、帝国主義という国家解釈の援用自体が、マルクス主義そのものだ、というとを横着にも、忘れて、平気で、わたしはマルクス主義者ではないというのである。