世界市民と市民革命 | 気になる映画とドラマノート

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つからか、「世界市民」という言葉があちこちで聞かれるようになってきた。

 


 

 この世界市民という言葉は、私には聞くに不愉快な言葉だ。

 


 

 この言葉は、たとえば、次のような場合に発せられた。

 

 朝日新聞が、教科書の歴史記述に侵略が進出に置き換えられた、と報道して、他の主要紙も追随報道。この日本の国内報道が韓国、中国に伝わって、宮沢首相が謝罪して、近隣国条項(教科書の歴史記述は近隣国に配慮する)を作った。

 


 

 ところが、実際には、この報道は誤報だった。

 


 

 が、誤報だという事実は小さく扱われて、日本の韓国の在日韓国民団青年部が怒って、在日一世の人々の証言を集めた本を作成して抗議した。

 


 

 その本に、サンダカン八番娼館を書いた作家の山崎朋子が寄稿していて、その文章の中に、「世界市民の意識をもたなければならないのに」と言ったふうに書いてあった。

 


 

 この違和感はどこからくるのだろうか。

 

 ロシア文学を読んだり、ラテンアメリカ文学を読むことがある。台湾映画を見たり、韓国の映画を見たりすることもある。その時、「わかる」という感じを持つ時、「世界市民」であるのだろうか?

 


 

 なんで、「市民」なのか?そこがどうにも、おかしいのだ。

 

 山歩きをする。海で泳ぐ。観光旅行をする。その時、楽しく生きている気分の自分は「市民」なのだろうか。

 


 

 わたしは、およそ自分が「市民」だと思った事がない。東京の○○区民なら、区民だろう。一生、区民や町民、村民で、市民だったことがない人はいる。むしろ、町民、村民のほうが市民よりも多いくらいかもしれない。少なくとも、「市民」経験のない人はかなりいるだろう。

 


 

 なら、世界区民でも、世界県民でも、世界村民でもよさそうだ。

 


 

 なんで、「世界市民」が選択されたのだろうか。奇妙である。

 


 

 1950年岩波書店雑誌「世界」7月号に、「世界市民をめざして」というウェストン・ラ・バールという社会学の教授の論文が掲載されている。

 


 

 この人物がはじめて言ったのかどうかわからないが、かなり世界市民の使われた例の初期の部類だろう。

 


 

 この論文を読んで、どういう意味で、「世界」「市民」なのか、世界「村民」ではないのか、「町民」ではないのか、をさぐろうとすると、誤訳なのか、どうかわからないが、

 

なんとも、意味がわからない文章の羅列なのだ。

 


 

「各社会がたとえ自分の社会こそが最良のものだと主張しようとも、実際には、ただひとつの最良の社会は存在しないであろう。」

 


 

 これはどういう意味だろうか?

 

 まず、「自分の社会こそが最良のものだ」と主張する「各社会」は現実には、存在しない。「宗教」「自由主義体制」「社会主義体制」ならありうる。その場合でも、「社会」ではなく、自由主義国家群、社会主義国家群なのだ。「わが中国が最良の社会」という言い草はまずありえまい。社会主義国家群という遠慮したものいいなら、多少ともありうる。

 


 

 「わがアメリカは最良の社会」とは、なんぼなんでもずうずうしすぎて、ありそうもない。「自由主義を信奉する国家群」は最良というなら、ありそうだ。

 


 

 それから、わが民族は最良、というのも、ありそうだが、民族と「わが社会」は違う。

 

 民族という場合、「資質、遺伝子的な優越性、歴史に遡ることの可能な文化形成力の独自性」が信じられているわけで、「社会」には、生物性、歴史性が抜けているニュアンスがある。「社会」という場合、制度、習慣の優越性に重点が置かれているわけだ。

 


 

 ウェストン・ラ・バールは、続けて、

 

「欠くことのできない一致点は、現在多くの民族主義が存在するが、このような民族主義の性格であり、位置であり、問題であり、約束であるという科学的事実を観察しなければならない。」とある。

 


 

 民族主義の性格、ならまだ、言わんとすることはわかる。

 


 

 しかし、民族主義の位置、問題、約束では、もう支離滅裂ではないか。

 


 

 なにを言っているのかさっぱりわからない。

 


 

 「われわれは自分で選んだ相違のうちに保護されることを必要とする。」

 

 というのも、おかしい。わたしたちは、生まれた国、生まれた街を自分では選んでは生まれない。ところが、バールは、「自分で選んだ相違」と書いている。

 


 

 よく読むと、バールは、どうやら、社会主義を実験的に導入してみて、どうなるか、観察してみたい、(できれば自分の生きている国で、)と言っているようなのだ。いや、wかりにくいので、何度も文章を読んでみると、1950年当時、アメリカ中心の西側と、ソ連中心の東側が対立して、戦争か冷戦かという状況にあったので、バールは、社会主義社会がよい社会かもしれないから、詳細になりゆきを見届けたい。そのためには、戦争をしたのでは、社会主義という実験を見届ける事自体が不可能だから、戦争はするな、というそういう論法で、戦争に反対しているのだ。

 


 

 それにしても、バールがおかしいのか、訳者がおかしいのか、わからないが、「世界平和を破壊するものは、人類への侵略者だ」と言うところなど、いかにも、粗忽である。

 


 

 「民族主義に奉仕する軍国的な帝国主義」が悪い、という意味の事を言っているのが、いかにも苛立たしい。というのは、このバールという人物は、米ソ冷戦時代、朝鮮戦争の時代の1950年の論文において「民族主義に奉仕する軍国的な帝国主義」を問題にする。

 


 

 間抜けとしか言いようがない。アメリカにもソ連にも、北朝鮮にも、韓国にも、「民族主義に奉仕する軍国的な帝国主義」はあてはまらないのだから。北朝鮮は小さすぎて、帝国主義ではあるまいし、アメリカは民族主義に奉仕しているわけではない。むしろソ連はロシア民族主義だったかもしれない。

 


 

 バールは、その時代の、いまそこにある危機にまるであてはまらない戦争の原因をおおまじめに問題にしていた。

 


 

 バールは、あきれたことに、戦争がなぜ悪いかを書いて、「コミュニケーションによる文化的相異の橋渡しを妨げるから、より一層大きな罪悪だ」と書いている。

 


 

 ほとんど狂人である。文化的相異の橋渡しどころではるまい。戦争の最大の罪悪は、個人の生命、家族の離反という安寧を奪うからだろう。

 


 

 おまけに「攻撃的な戦争準備が公然となされた時のみ、干渉や抑圧が正当化される」と「戦争が起きたら、逃げる」という香山リカなどが、怒り出しそうな事を書いている。

 


 

 案外なことに、バールは、ある国が財政破綻に陥って、戦争にうってでようとした場合には、討伐戦争してもよい、と言っていることになる。たとえば、湾岸戦争のように。

 


 

 ベトナム戦争のように、北ベトナムが先に戦争をはじめた場合は、アメリカは正当だったことになるのだ、バールの論法だと。

 


 

 この世界市民をめざしてという論文には、たった一箇所、「世界市民」という言葉がでてくる。

 


 

 「世界市民の基本的権利は集団間の攻撃の必然性と結果から自由であることである。」

 


 

 まったく意味がわからない。基本的権利がある、それは攻撃の結果からの自由であることだ、と言いはっても、イスラエルとパレスチナの人々はテロで死ぬし、911の犠牲者は犠牲になった。だいいち、世界市民の権利と言わなくたって、ひとりの人間として、誰も殺さたくないし、家族と生き別れになりたくないだろう。それを権利と言う必要さえないのではあるまいか。

 


 

 ああ、そうか。「世界市民」という考えは、必要なんだな、とはまったく思わない変な論文をなんでこの岩波書店「世界」は掲載したのだろうか、わからないのだった。

 


 

 それでも、もっと、「世界市民」という言葉を使いたい人の使いたいそのわけを想像してみると、要するに、世界国という「世界統一政府」があれば「戦争にならない」わけで、「世界国民」とか、「世界国」という名称がなんか変だから、しかたなく、とりあえず、「世界政府」があったらいいな、世界政府の「世界政府村民、市民、区民になりたいな」

 

それだったら、戦争を体験しなくてすむのにな、という意味だと思われる。

 


 

 それは、戦争を嫌う、と主張しているだけで、そんなのは、「世界政府」の実現を願望しようとしまいと、戦争を嫌っていないわけではない。誰だって戦争はいやなのだ。

 


 

 で、ようやく、わかるのは、「世界市民」とは、「世界政府」を目指すことが、重要だとする、悪く言えば宗教。よく言えば政治思想集団なのだ。

 


 

そして、たぶん、なぜ「区民」「町民」「村民」ではなく、「市民」が選ばれるかというと、ロックの市民政府論の「Civil Liverty」に由来するするらしい。

 

 ※岩波書店1950年8月号の「座標」欄のNS氏は、「自由の抑圧は政府側の底知れぬ腐敗と無制限な専制を生み出す」と、まるで現在の中国の賄賂社会を予言するまことにイイ事を書いているのだが、その後、朝日新聞と岩波書店文化人は、中国と北朝鮮をひいきにしてきた。

 


 

 そして、世界政府ができて、あらためて、「Civil Liverty」を行使するというのが、理想だと思っているらしいのだ。


戦後まもなく、日本共産党系の歴史学者羽仁五郎の「都市の論理」が当時の学生に大受けしたのは、革命は都市を舞台にしておこなわれ、都市とは、cityであり、都市の民がcivilであり、citizenだからだ。


 市民主義、市民フォーラムとは、革命の主体だというロマンがふくまれた概念なのだった。そして、市民とは、農民、手工業職人に比べて、教養があるという自負心がある。


 笑わせるな、とおもうけれど。


 実際、安保闘争は都市でおこなれたが、その実、安保条約をきちんと読んでいた学生も、労働組合員も、市民も、いなかった。


 

 しかし、「世界政府」って、一見もっともらしいけれど、もしかすると、永遠に実現しないかもしれないではないか。そして、世界政府は永遠に実現しないが、実現しないままで、気がついてみれば、2000年間、戦争はなかったって事もありうるじゃないか。

 


 

 わたしは、なにも、世界政府ができて、世界町民、世界区民にならあなくても、「戦争がおきなかったね、あれから、もう2000年経つのに」って、アメリカ人と日本人が

 

話し合う時はあると思う。その時、世界市民は当然、存在しないわけだ。

 


 

世界市民とは、自己意識としては「最先端」(昔ふうに言えば、前衛という言い方)になる。というのは、世界市民は、自分自身は、民族意識の昂揚する素地の生活地で、民族意識の否定、抗いの所作を行いつつ、外部に対しては、民族自立を支援するから、そこにすでに、外部の後進地域は、民族自立を課題としているが、自分自身はすでに、民族自立の課題を終えた地点に立ちつつ、民族派を支援する、というスタンスを維持する。

 


 

 なお、日本の典型的市民主義者の元祖のひとり、小田実は、阪神大震災の後、国が被災者を手厚く補償しないのは、おかしい。と政府を批判したが、これは、日頃の防衛という国家の国民保護の側面の拒否姿勢に反して、災害の場合は、市民の自力を軽視して、国家の権能に依存姿勢を示した恰好になる。

 


 

 日本には、無数の市民フォーラムという組織が存在する。

 

 これは、「市民主義」の理念性に無頓着な人間には、地方自治体の市区町村区分の、市にあるフォーラムだから、市民フォーラムなんだろう、と当然そう思う人があってもおかしくない。

 


 

 しかし、フランス革命における「時の政府」に対する対抗勢力は、「小市民」「学生」「労働者」とされた。では、「小市民」とは、いったいなんなのだろうか。

 


 

 「農民」(とその妻)「労働者」(その妻)「手工業者」「貴族」「王族」「学生」に該当しない属性を持つ存在、という事だろう。

 


 

 つまり、この「農民」でもなく、「労働者」でもなく、「学生」でもない者、とは現代にあてはめてみれば、医師、芸術家、科学技術者、教師、小商店主等々ということになる。

 


 

 本来これらが、「市民」であり、革命の主体として、「政府に対抗する存在」としての市民という事になる。ところが、世界市民という時、この意味と特定の民族国家の地方自治体区分の属性拒否という理念が重ね合わされる・・・というように、極めて恣意的な概念なのだ。

 


 

 だからこそ、市民主義という場合の市民と、「世界市民」という場合の「世界」と付属させた名称がなにか、意味のずれを感じさせるもとになっている。

 


 

 本来は、世界と市民とを結合させなくても、「市民」だけでも、フランス革命の「市民」を想起する事ができれば、「政府に対抗する存在としての市民」とイメージできるはずなのだ。そして、それが、「市民主義」だ。

 


 

 では、なぜ、世界市民という言葉がうまれたのか。なんのことはない。「市民主義」というだけでは理解できない・・あるいは、理解させることができないと慮った知的エリートが、無知な大衆にわかりやすく、教える方便として、こしらえあげた概念にほかならない。「世界市民」とは、通俗概念なのだ。

 


 

 さらに、この「世界市民」という概念がいかに通俗化した概念かというと、フランス革命においては、小市民は、「学生」「労働者」と区別された存在であったのが、「世界市民」になると、「学生」も「労働者」も、「世界市民」という自意識を持ってよい概念に変化しているのである。国家を否定し、その証拠として、みずからの属する政府に反抗するということにおいて、労働者も、学生も世界市民だ、というように、変化している。

 


 

 では、小市民の「小」とはなんなのだろうか。

 

 財産が比較的少ない、ということだ。

 

 すなわち、これは、とりもなおさず、中間層を意味するのである。

 


 

 農業中心社会を脱して、非農業民の職能層が社会の多数を占めることになった社会で、その多数派の市民が政府に対する反抗の主体になる。これが、「市民主義」の理念だ。

 


 

 そして、政府に対する反抗と第二次世界大戦におけるナショナリズムの昂揚を否定する意識を結合させた概念が、「世界市民」だろう。

 


 

 ナショナリズムの昂揚が戦争の原因だ、という観点が生まれる前の時代には、「世界市民」という考えが生まれる必然性はまったくなく、ただ、王制から権力を中間層小市民に奪取するという目的だけがあって、権力を奪取した市民が、ナショナリズムを形成しても問題ではなかったのである。

 


 

 実は、権力を奪取した市民が、ナショナリズムを形成しても問題ではなかった、という歴史的な実例が、アメリカの国家形態だった。アメリカはアメリカというナショナリズム国家なのだ。

 


 

 世界市民という理念がなぜ、無理があるかというと、ソ連、中国、アメリカはすべてそれぞれ、「皇帝のいないナショナリズム国家」なのである。

 


 

 ちなみに、中国は「中華民族」という民族の立て方をしている。

 


 

 つまり、日本の朝日新聞、岩波文化人、そして、市民フォーラムを満悦して運営している者達が、「世界市民」という言葉に陶酔を覚える時、それは、世界にまだ、実現のしたことのない、極めて困難な課題を、ただ、「希望するだけで実現するかのような」思想的キセルをしている事になる。

 


 


 

 世界の革命思想が、全生涯をかけて思索に思索を重ねて、ようやく可能性のかけらをつかみうるような、困難な課題を、日本の「世界市民」教は、愛があれば何でも叶う・・みたいに、「世界市民」と思おうよ、さすれば、戦争と憎しみの世界は解決すると言っているのだ。それは、幼児的な妄想の世界だ。

 


 

 市民革命を論じる歴史学には、次のような一節が存在する。

 

 ベルリン民衆が、ベルリン武器庫を襲撃した。

 

 「労働者」「小市民」「農民」などの「小市民的民主主義者」のこうした試み(暴力的な政府への反抗)は、封建的勢力とブルジョア勢力の連合した反革命によって、鎮圧された。

 


 

 つまり、この文章の構造からすると、革命論を論じる者は、「労働者」「農民」「学生」を「小市民」と区別しつつも、「小市民的民主主義者」という時、「小市民的民主主義者」に「労働者」「農民」「学生」を包括させている事があわかる。

 


 

 ここで、封建的勢力というのは、ヨーロッパで言えば、大地主貴族、日本でいえば、大地主藩主、の事だと言っていい。つまり、貴族と貴族を維持する側近たち。藩主と藩主の権威を守護する側近たち。そして、ブルジョワジーとは、工場経営者のことだと思われる。

 


 

 日本で類推すれば、大商人と 大地主藩主の勢力を維持したい連合が、大商人と大地主藩主を没落させたい勢力を抑えることを、「反動」とか「反革命」と言っていることになる。

 


 

 つまり、日本の戦後民主主義者が、なぜ、当初、韓国よりも、ソ連、中国、ベトナム、北朝鮮に強い親和性を示したか、というと、ソ連、中国、ベトナム、北朝鮮、には、まぎれもなく、「大商人」「大地主」が消滅したことは、たしかだったので、フランス革命、ドイツ革命のその先まで、革命が成就した、ついに、「大商人」「大地主」を壊滅させる事に成功したんだ、と錯覚したのである。

 


 

 フランス革命とドイツ革命を論じる者の論調をつぶさに読んでみると、実に滑稽なほど、「大商人」「大地主貴族」を倒しきれないで残念無念という意識で記述していることがわかる。

 


 

 これは、その後、アメリカの大資本と日本の財閥とそこから続く新興資本の興隆を壊滅させて、ソ連、中国、北朝鮮のごとく、大資本、個人大地主の無い社会にしてみせたい、そうなって、はじめて失業と抑圧と過剰競争によって、疎外された人間は真の解放がなされるという願望に入っていったのである。

 


 

 しかし、本当は、大資本、個人大地主を潰しても、自由の抑圧と収容所国家が待っているだけだった。

 


 

ましてや、・・・ましてや、である。その革命の夢の崩壊の苦さをかみしめることさえなく、「市民主義主義」という「政府への反抗」のポーズに自己陶酔するなどは、ふざけた話ではないか。というのも、人間の解放は、思想のキセルではけっして、得られるものではなく、生涯をかけてなされる人知れない国家の構造分析によるかもしれないのに、市民主義で、生涯、わたしは、戦い続けました・・・などと、自己陶酔にひたって生涯を終える連中がいるからだ。それが、NHKの解説委員や、岩波書店編集者や、進歩的文化人、護憲おばさんだ。

 


 

右翼、保守は論外としてもよい。革命を夢見た左翼が、敗北したのは、みずからが革命を責任を持ってなしうるという思想的掘り下げにおいて不足しているという現実を直視する勇気が不足していたために、ウソと誇張でもいいから、体制を攻撃しようと急く、(せく)その姿勢に、どうしようもない軽薄さが含まれていたのではないか。

 


 

左翼には、人間の疎外からの解放という大望があるはずである。

 

 しかし、現実の左翼は、AKB48の小娘の松村でさえ、「百パーがんばって、そこから、悔しい」と思ってほしい、と言うだけの社会、人間、歴史、政治構造についての考察をやりきったと言えるのだろうか。

 


 

 おそらく、そうは言えまい。

 


 

ところで、仮に「世界市民」を目指す理念が成就して、世界政府が確立して、核の国際管理と縮小が実現し、戦争の放棄の合意ができたとして、人間はその時、経済変動を完全にコントロールできるだろうか?また、愛憎、DV、依存症や精神病などを克服できるだろうか?できるわけがないではないか。平和の確立、永遠平和の確立。核の廃絶は、ソレは「戦争のない状態を意味する」のであって、失業の解決、需要と供給のギャップを解消できると言う事とは別問題なのだから。

 


 

 また精神機構は精神機構であって、戦争がなくなれば、精神異常がこの世からなくなるわけではないのだから。原発も同じである。原発を廃止しても、それで、世界の貧困、飢餓、先進国の国内の失業と流浪、家庭崩壊が原発廃止で解決できるわけもない。

 


 

 だとすれば、あまりに、反核、反原発、平和・・に、血道をあげすぎてはいないか?

 

反核、反原発、平和の確立と人間存在の苦しみは関係はあまりにも無関係ではないか。

 


 

 戦後、現に「平和」「戦争のない期間」が長かった(平和憲法のおかげだそうだ)その期間、人間は幸福だったのか?それは、フェミニズムで解決する類の事なのか?

 

 フェミニズムが十全に貫徹すれば、精神病はなくなるか?

 

フェミニズムは、南米や東南アジア、アフリカの女性の貧困に答えを出す事ができるか?

 


 

慰安婦、慰安婦という人は、もし、慰安婦をした人が、自分の苦労なんかなんでもない、とアフリカの飢餓の難民に奉仕する生涯にのり出したらどうするのだろう。

 


 

 それでも、謝罪と補償を、と言い続けるのだろうか?そんなのどうでもいいんだ、わたしなんかどうなってもいい。あの人たちを助けなければならぬ、と当人が言っても?