現代史を考えなおす 13 | 気になる映画とドラマノート

気になる映画とドラマノート

厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

67.工藤美代子著「われ巣鴨に出頭せず」249P

 

「近衛の苦悩は連日続いていた。首相の意見が通らない国だった。

 

 ※重要な会議の一員ではある。しかし、いざ意見が違うとなれば、首相の意見を強引に優先できるということがない。

 

 ※天皇については、「支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって、三ヶ月と申すか」と統帥部を難詰しはするが、「ならぬ、なにがあっても、戦争はならぬ。準備もならぬ。」とは、決して言わなかった。

 



 

 だから、東條は、「戦争準備ではなく、外交を第一とせよ」という天皇の意思に「聖慮は和平を望んでおられる。こうなったら、なんとしても、日米交渉を成功させなければならない、とは、真剣につぶやいたものの、ハル・ノートが日本に強硬に出ると、はや、東條は、「駐兵拒否と言われては、陸軍はゆずれない」と言う。つまり、天皇がまったく、戦争の余地はない。すべて、相手の要求を飲んででもいいから、和平せよ、とは言わなかったので、やむない場合は、戦争準備に入る、と言う第二案が正当性を持ってくる。

 



 

 近衛50歳の時、東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木貞一企画院総裁と会った。

 

 つまり、首相、海相、外相、企画院総裁が国家の中枢だったことになる。

 

 この前夜に、日本人の心の弱さ、社会構造の弱さが露呈する。

 

 海軍の海軍大臣の海軍省内の補佐役の官僚が、「戦争はしないほうがいいが、表だって、戦争反対とは言いにくい」「だから、総理の決意に一任する」という方向にしてくれ、と伝える。

 



 

 ひとまかせ、責任のがれ、陸軍に対するメンツのために、海軍の本音を言わないというのだ。これがまた、日本人のこの時の青年たちを平均年齢23歳の憂き目に会わせた元凶だった。

 



 

 東條は「陸軍の大陸駐兵の撤兵はできない」と繰り返した。

 



 

 近衛「形式は米国の言うようにして、実を取ればいいではないか」

 



 

 東條「9月6日の午前会議で外交交渉に見込みがなければ、開戦を決意すると決定したではないか」

 



 

 近衛「戦争には自信がない。自信がある人でおやりなさい」

 

※これがまた、日本ふうでおもしろい。たしかに日本語では、 「自信がある人でおやりなさい」は、私は賛成しないよ、なのだが、「私は賛成しない」と明示したほうが、強いのに、 自信がある人でおやりなさいというところに心の弱さがある。

 



 

 東條のこれに対する答えに、日本の開戦決定の確信がある。

 

 「陸軍大臣」のこの考えに日本は引っ張られた、と言っても過言ではない。

 

「(撤兵すれば)米国に屈服すれば、米国はますます高圧的となって、とどまるところがなくなる。総理の苦心は了解するが、総理の論は悲観論に過ぎる。」

 

 つまり、東條はまぎれもなく、日米戦争は、惨憺たる結果になるとは思っていなかった。

 

 また、事実、アメリカは自由と民主主義の国と言うイメージで測りきれないほど、非人道的な攻撃手法を取ったこともたしかだった。

 

 たとえば、アメリカは、途中和平を想定せず、日本を壊滅して、一農業国にして、武力を放棄するタマをぬいて去勢した国家にするまで突き進むとは、東條は想像もしていなかったし、戦争の間に原爆を開発して、成功し、をれを躊躇せず、使用するとも、思っていなかった。それが、 総理の論は悲観論に過ぎる、で、近衛は原爆も、敗戦後の憲法のこともわからないにしても、多くの国民が塗炭の苦しみをなめるだろう、とは想像できたろう。

 



 

 この時、陸軍と考えの相容れない首相は、総辞職しかない。

 

 陸軍大臣だけを解任しても、陸軍が代わりを推薦しなければ、内閣が成り立たない。

 

 これもまた、日本の制度の重大欠陥だった。強引に、一方的に陸軍大臣を指名することが、できないのだった。

 



 

 ここで決定的に馬鹿げた成り行きが起きる。戦争できない、という近衛は地位を辞退して、「戦争やむなし」という陸軍大臣を、総理に昇格させる。

 

 これでは、結果的に近衛は自分は汚いものに触りたくないが、あなたがたで、どうぞおやりください、と言ったと同じである。

 



 

 当時元老的な役割を担っていた「内府」の木戸幸一が、では、東條に総理をやらせようと考えた。

 

 ※近衛の内閣書記官長風見章にしてからが、良心的な、貧乏な人々を思い、熱い涙を流す共産主義を夢見て、米国よりも、ソ連社会主義の共鳴する人物だった。

 

 風見章は、同じく、良心的な、貧乏な人々を思い、熱い涙を流す共産主義を夢見る教養人で、朝日新聞の敏腕記者、尾崎秀実を近衛に紹介した。尾崎はまず、ソ連を勝たせることによって、負けた日本が社会主義になれば、結局、日本にとって、長い目ではためになり、売国者と言われようと、「死ねばいいのだろう」とソ連へ情報を流すスパイになる覚悟をした。アメリカにも、強力な国際共産主義の一員がいて、上海に活動するアグネス・スメドレーという女性で、尾崎はアグネスと意気投合して、世界共産主義の夢を語った。

 



 

 アグネスが尾崎にスパイゾルゲを紹介した。

 



 

 尾崎は近衛に優遇されて、首相官邸の中に、自室を持って、他のジャアーナリストの知り得ない機密情報に触れることができた。

 



 

 尾崎は巧妙に支那問題研究会を開こうと、持ち掛けて、24人以上の当代の知識人を集めて、たびたび意見を言わせては、知識人の情勢認識の実態を把握して、ゾルゲにまわしていた。

 



 

 軍の有力者たちの動向に対抗する目的で結成された昭和研究会に尾崎が入り込んだために、日本の反軍組織は、実質的に、ソ連の国益のために、日本の指導層と政治中枢の情勢分析を筒抜けにする情報供給機関に変貌していた。

 



 

 また、近衛ら政府の政治方針をソ連の側の北ではなく、南へ関心を向けるように、食事会の歓談の中、自分の書く朝日新聞論説記事に、書いて戦争を誘導していった。

 

 それもこれも、日本が滅びて、ソ連の弟分のような社会主義になれば、貧困者が救われると思ったからだった。

 



 

 まちがいなく、東條は、「近衛が総理で、東條が陸軍大臣」という関係では、戦争に傾いていたが、木戸幸一は、最後の賭けとして、最終決断の時に、天皇の意思を示せば、その時に陸軍を抑えられる可能性があるのは、東條英機ではないか、と考えた。

 



 

 天皇は木戸のこのアクロバット的な「主戦論者にして、熱い天皇崇拝者」を首相に据えることによって、天皇の意思を伝えて、軍を抑える側に回らせるという戦術を、了として、「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」と言った。

 



 

 木戸はこの天皇の言葉を日記に書いて、強硬論者の東條が、戦争を回避し始めている、と満足されている」と書いたが、工藤美代子は、(木戸の考えは、甘い。東條は残念ながら、命を賭けて、戦争回避に専念したわけではなかった」と書いた。

 

 ※つまり、この時点で、命を賭けて、死に物狂いの思いで、戦争回避する要人はどこにもいなかった。海軍は総理に任せます、としか言わないし、総理は「戦争は不可だが、陸軍が撤兵しないというなら、じゃあ、やめる」と言った。

 

 また、木戸幸一は、「東條は天皇陛下に思いが強いから、天皇が戦争を望まないというなら、命を賭けてまでも、戦争回避する方向に動くだろうと思ったが、それも甘く、「必死ではなかった」

 



 

 木戸幸一自身、お調子者、無責任男ともなんともつかない人物で、しまった、策が敗れた、という悲痛な思いがない。

 

 日本の命運について、他人事なのである。

 



 

 国民、下位官僚は、上の決定に従うしかなく、トップには、是が非でも、意思を通そうという気概もなく、ましてや、脇腹を共産主義ソ連への通謀者朝日新聞の記者にがっちりと噛まれ続けていた。

 

 戦後の座談会で、「(東條は陛下の命令によってやるというつもりなんだ。というのは、開戦は御前会議で決まっているわけです。筋を言えば、東條のほうが、しっかりおさえている。」と東條を弁護する。つまり、東條を首相に推したのは、木戸なのだから、これは自己弁護でもあるのだが、問題は、東條が、ハル・ノートが日本に強硬に出ると、はや、東條は、「駐兵拒否と言われては、陸軍はゆずれない」とし、「(撤兵すれば)米国に屈服すれば、米国はますます高圧的となって、とどまるところがなくなる。総理の苦心は了解するが、総理の論は悲観論に過ぎる。」と主張したことに原点があり、「虎穴(陸軍)にいらずんば虎子(和平)を得ず」という天皇の期待は、霧散したことになる。

 



 

現代史を考える 12

 



 

 木戸幸一は、要するに長州の桂小五郎の子孫のひとりであり、近衛は明治維新の時の公家のひとりの子孫だった。

 



 

 公家が長らく、危機意識とは無縁の家柄であるのはいうまでもなく、近衛文麿に、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬などの、とぎすまされ、なおかつ重い世の中への責任感があったはずもない。桂小五郎の子孫だった木戸幸一もまた、子孫である以上、祖先の桂小五郎とは、まるで違う単なる由緒ある家柄のお坊ちゃんに過ぎない。

 



 

 そういう甘ちゃんの二人が、日本の最大の危機に首相と内府として、立ち会った。

 

 内府の木戸幸一が、東條英機口との論の果て、ねばりもなく、首相を降りて、木戸幸一が、内府の役回りとして、東條英機に白羽の矢を立てた。

 

 天皇に心酔する東條ならば、戦争を回避したい天皇の意思を尊重して、死を賭してでも、軍を抑えこんで戦争を回避するだろう、という思惑だった。

 



 

 東條は東條で、支那から一兵たりとも、手を引いたら、靖国に足を向けて寝られない、と言うような、大局を知らない底の浅い人物だった。

 

 東條の父親は南部藩出身で長州藩閥にないがしろにされた人物で、日露戦争の最中に、現場からはずされるという、軍人にとっての屈辱感を味わっていた。

 



 

 天皇40歳、近衛50歳、木戸幸一52歳、東條56歳という並びで、日本は日米戦争突入前夜をむかえていた。なぜ、日中戦争はさほど問題ではなく、日米戦争が問題なのかかというと、アメリカが決意しなければ、オランダも英国も参戦しなかったし、日中戦争にとどまる限り、沖縄戦も、広島、長崎の原爆も、日本の各都市の空爆もなかったからだ。

 



 

 また、中国は、日本と関係なく、蒋介石国民党と毛沢東共産党が戦争をしたのであり、韓国と北朝鮮は、日本が嫌がる朝鮮、韓国の手をひいて、戦争させたはずもない。

 



 

 蒋介石国民党と毛沢東共産党の間の戦争も、朝鮮戦争も、日本に関係ないのだから、日本は、日米戦争を回避できたか、出来なかったかが最重要の問題になる。

 



 

 日本は、英国、アメリカが日本人を徹底的に見下していることに鈍感だった。(ましてや英国は、アヘン戦争以来、支那人を見下していたし、アメリカ人にとって、支那人とは、大陸横断鉄道の敷設工事の低賃金労働者の供給国に過ぎなかった。)

 



 

 日本は、英国、アメリカがどこまで日本を見下し居ることか、お人好しにも、気づかないがゆえに、英国が香港をアヘン戦争以来、99年間、租借しているのだから、ましてや日本が、ロシアの権益を、英米の支援を受けて勝利した見返りに得た満州の権益を持ち続けて何が悪いのか?と思っていたろう。ところが、英国、アメリカにしてみれば、ロシア、英国、フランス、アメリカによる世界制覇に、アジア人の日本が一丁前に入り込んで来ること自体が、ありうべからざることだった。この感覚が当時の日本の指導層にわからなかった。木戸幸一は、一丁前に戦争直前まで、ゴルフ三昧の日々だった。

 



 

 来栖大使は言っている。

 

 「ハル国務長官には、顔つきにも、態度にも、信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。」

 

 おそらく、来栖は気づいていないようだが、アメリカの国務長官ハル長官が、英国大使にも、同じ顔つきをしていたかどうかは、怪しい。要するに、ハル国務長官は、その次代の白人の平均的な意識として、黄色人種の日本人自体が嫌いだったのである。しかも、一丁前に、アメリカに国際法を縦に仔細らしく交渉をする日本人を嫌悪したことだろう。

 



 

 かててくわえて、「白人たち」は、現在の日本がそうであるように、戦略戦術において、日本よりもはるかにうわてだった。というのも、アメリカのハル国務長官にハルノートは、ほかならぬ国務省にはいりこんだソ連KGBのスパイ「HDホワイト」が作成したものだった。HDホワイトは、日本が妥協できないような、つまり日米が戦争するように仕向けるような交渉案を作成した。

 



 

 それは、ソ連の「日本という資本主義国とアメリカという資本主義国とを戦わせて、日米双方が、消耗すればいい」という謀略だった。

 



 

 アメリカに忍従してでも、戦争を回避しないわけにいかない。(開戦すれば、必敗)

 

 という意見は、岡田啓介、若槻礼次郎、米内光政、近衛文麿等が主張した。

 

 すなわち、そういう見解を言う重臣会議という場で話し合った事もまた、日本がヒトラードイツのファシズムとは、違う事。日本ファシズムとは、言葉の文であって、ドイツファシズムが文字とおりのファシズムだッたこととは、異なるという理由でもある。

 

 また、「日本帝国主義」といっても、その程度の「帝国主義」、「煮え切らない帝国主義」で、押し出しのよい恐ろしき帝国主義とはとうてい言えなかった。

 



 

 「国内生産の増強によって、軍需物資のジリ貧を防ぐ事は可能なのだから、(ABCD包囲網で)経済断行を受けても、戦争なしで進みうるのではないか?」近衛は言って、東條と口論した。これは、現在の北朝鮮が貧困に耐えながらも、事実上、戦争をしてはいない事と通底する発想である。

 



 

 現在、なぜ、北朝鮮が戦争をしないか、といえば、結局現在では、中国の支援を期待できないから、必敗しか想定できないので、だから戦争しないのである。

 



 

 近衛ら非戦派は、現在の北朝鮮と同様、必敗だから、貧困を覚悟するしかない、と言ったに等しい。そして、東條ら、開戦派は、まさか、アメリカがその後、無差別爆撃や原爆投下までする容赦ない政府だとまでは、予想出来なかった事が、日本人の甘さと限界であり、アメリカの恐ろしさだった。また、アメリカは、戦争において残酷冷徹であるとともに、アメリカ国務省に入り込んだソ連KGBのスパイに気がつかない甘いところのある国でもあった。

 



 

 日本はあくまでも国際法を遵守しつつも、小国として限界まで、戦おうとして、真珠湾攻撃の直前に宣戦布告を手交するように手配したが、アメリカ駐在の大使館職員の平和ボケのために、前日までのパーティのために宣戦布告の電文を手に取るのが、遅れて、「真珠湾攻撃の後に、宣戦布告した」と言われるハメになった。

 



 

 アメリカは、市民への無差別爆撃、原爆投下、敗戦国に対する憲法のおし付けなど、数々の国際法違反を、実際には、行ったが、まさか、東條ら、開戦派は、アメリカと言う民主主義国家が、そこまで、無道卑劣な国とは予想しなかったろう。 東條英機に最大限の同情をしていい点があるとすれば、アメリカがそういう容赦ない国だとは思わなかった事だった。アメリカは、インディアンにどうしたか。メキシコをどうだましたか。フィリピンのゲリラにどういう仕打ちをしたか。もし、それを知っていれば、当時の日本の指導層は、現在の北朝鮮のように、経済制裁を耐え忍んだまま、戦争を回避するほか、選択肢は、なかった。

 



 

 近衛が、日本は仮に、貧乏を耐え忍んででも、戦争だけは避けなければならないと言うことを、現在の北朝鮮の指導者と同じように言って、辞職した日、元老西園寺公望の息子西園寺公一が、どら息子よろしく、人道的社会主義に共鳴して、朝日新聞の善意に満ちた尾崎秀実とともに、逮捕されて、ソ連に機密を流していたことを自白した。

 



 

 そのため、東條らは、非戦派の近衛は、なんのことはない、朝日新聞の尾崎秀美のような売国奴にだまされて、総理官邸に自由に出入りさせていたではないか、あのバカが、と嘲笑した。

 



 

 近衛は、尾崎秀美、西園寺公一、ゾルゲらの日本の機密をソ連の流していた事件を知った後、「自分は尾崎とふたりきりで会ったことは一度もない。自分くらい共産主義に反対な者はないくらいなのに。この事件くらい不愉快なものはない。」

 



 

 と、言ったが、これまた、きわめて間抜けな言い草で、「自分くらい共産主義に反対な者はないくらい」などという事をだれが信用しよう。泥棒の被害者が、自分は世の中で一番盗みが嫌いなのに、というのが、馬鹿げていると同様、あまったれた言い草なのである。

 



 

 尾崎ら、スパイを首相官邸に出入りさせていた責任を、近衛は、まるで感じていない。

 



 

 戦後、日本は、負ける戦争をなぜしたのか、という問いは数え切れないほど、なされてきた。しかし、ミッドウェー海戦の敗北の後、間違いなく、外務省の吉田茂は講和案を具申した。

 



 

 これを聞き流したのが、木戸幸一だった。

 

 吉田案は、元々、非戦派だった近衛を木戸幸一が天皇に推薦して、首相に戻して、その上で、近衛をスイスにやって、全権として講和を進めてはどうか、というものだった。

 



 

 木戸幸一は、低能児のように、「世界平和のために、一日も早く、講和の努力をするのは、大賛成。しかし、近衛公の出馬については、じっくり考えさせてもらう」と。

 

 日本軍国主義、という。しかし、その当時、テレビ放送が、今のように、盛んなら、木戸幸一もこのようなのんきな返事をしていられなかっったのではないか。

 



 

 ※ベトナム戦争のアメリカの撤退の最もおおきな理由は、ベトナムの悲惨を、アメリカのテレビ局が、視聴率ほしさに、毎晩、アメリカのリビングに流し続けて、やがて、厭戦気分がアメリカ中を覆ったからだった。

 



 

 いったい、自分たちが、日本の青年たちに何をしようとしているのか、テレビメディアが無いためにピンとこないがゆえに、講和に真剣にならないという指導者たちの悲喜劇というには、あまりにも惨憺たる愚昧な日本の指導者の姿が、「軍国」の実態でもあった。

 

 それは、押し出しのいい軍国主義でも、日本帝国主義というべきものでもない。華族と武士の子孫のやがて平和ボケに陥ったナレの果てのお坊ちゃんである、近衛と木戸幸一、そして南部藩のような、長州藩閥から、排除された軍属の息子が刻苦勉励、日本の首相になったこと。現在と同じく、世界の先進国のどこよりも、諜報活動にうとかった日本。そうした様々な弱点を抱え込みつつ、平均寿命の23歳という悲劇の世代を生んだ。