テキサス・ソリューションから、日本へ | 気になる映画とドラマノート

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「テキサス・ソリューション」という言葉がある。これは、アメリカの歴史家にとっては、常識であるが、日本人はめったに知らない。

 メキシコ領土のテキサスに、アメリカからの移民が入植して、やがて、彼らは独立して、共和国を確立。そして、しばらくすると、アメリカ合衆国に編入併合するというものである。

 この方式は、1846年にメキシコ領土に誕生した「カリフォルニア共和国」にも応用された。

 この時、アメリカ合衆国は、「メキシコからの独立共和国派」に「軍事支援」と「メキシコ領のカリフォルニアがフランスやスペインの領土にされることのないよう、アメリカ合衆国がカリフォルニア地域を守るし、もし、共和国として独立できたなら、アメリカ合衆国に編入する用意がある」という意向を伝える密使を派遣して、メキシコ領カリフォルニアのアメリカ人開拓移民に伝えることでおこなわれた。遠大な戦略である。

 なぜ、アメリカにとって、カリフォルニアは、重要だったのか、と言えば、それは、サンフランシスコ港の確保が、そこから、チャイナの上海に到達する航路として、ぜひとも、確保しなければならなかったからだ。

 その時点で、サンフランシスコは、メキシコだった。

 この戦略は後に、ハワイ、にも、摘要される。
 フィリピンの場合は、共和国を樹立する支援をしてから、支援するという手順は取らずに、すでに、スペイン領土だったフィリピンは、アメリカとスペインの戦争によって、スペインがアメリカに敗北した代償として、アメリカの領土となった。これは、なにを意味したかというと、フィリピンに米軍基地を配置して、サンフランシスコ、ハワイ、フィリピンという拠点を太平洋に置くことによって、アメリカの上海への権益確保のルートを確保できることを意味した。

 同じ頃、1848年に、サンフランシスコには、建築用製材の需要が急増しており、アメリカのサッターはメキシコ国籍を取得した上で、メキシコ政府の信用を得て、カリフォルニアの土地を安く払い下げてもらい、アメリカ側から川を利用して、材木を輸入して、製材所を作ることを考え付く。この時の事業協力者、ジェームス・マーシャルが、製材を運ぶために掘り下げた川の状態を調べるために、調査をしている中で、川底から掘り下げて、積み上げられた土砂にゴールドが含まれていることを見出す。これが、サンフランシスコのゴールドラッシュの始まりだった。

 この情報は、アメリカ政府には、秘密裏に報告されたが、メキシコ政府は知らなかった。

 アメリカ人入植者がメキシコからの共和国独立を掲げた直後、アメリカは、メキシコに宣戦布告。
 海から回り込んでの上陸作戦を展開して、カリフォルニアはアメリカ軍の軍政下におかれたので、カリフォルニア共和国は実質的に意味をなさなくなる。

 メキシコ軍はアメリカ軍に次々に敗走する中、アメリカは、メキシコ側の感情的反発ゆえに、長期化することえお懸念して、当初の、カリフルニア周辺のアメリカ領土編入をメキシコ政府との、領土売買交渉によって、目的を達成する方策をさぐる。

 この交渉がまとまりかけたそのとき、アメリカ政府には、どうやら、サンフランシスコには、膨大なゴールドがあるらしいとわかったが、メキシコ政府は知らなかった。

 アメリカ政府はメキシコ領カリフォルニア住民には、補償金を支払い、メキシコには、領土割譲代金を支払って、メキシコ領の半分をアメリカ合衆国に編入した。サッターの砦で、ゴールドが発見されたのは、このわずか一週間前のことだった。

 編入後、サンフランシスコ周辺地域には、人口が少なかったので、上海への航路として発展させるために、どうやって、移民を誘導させようかと苦慮していたが、気づいてみると、政府の苦慮をよそに、カリフォルニア一帯には、金鉱発掘の夢を求めて、2月調印、そして7月には、もう、4000人の男たちが、カリフォルニアに集まった。

 これが1848年のことで、そして、ペリー提督が上海を発って、日本の浦賀に入港するのが、1853年。
 わずか4年後のことだった。


 そして、勝海舟の咸臨丸がサンフランシスコに到着したのが、1860年。

 アメリカの構想は、やがてアメリカ合衆国の東部から、太平洋岸のカリフォルニアまで鉄道が敷かれる。そうなれば、太平洋を通じて、日本、チャイナから輸入した一次産品を蒸気船で太平洋岸に運び、これを鉄道でアメリカの東部、そして、経由して、ヨーロッパに輸出するという遠大なものだった。

 これは、やがて日米通商の交流に繋がるのだが、その条約は、軍事的優位を背景に、「不平等」条約だった。

 日本の富国強兵とは、不平等条約から、平等条約への苦闘の政策でもあった。
 
 アメリカの高校生の歴史の授業では、「アメリカは、なぜ、日露戦争の仲介をしたのか」という設問が定番になっている。

 もちろん、「平和への願い」ではない。
 セオドア・ルーズベルトは、日露戦争の当初に、「アメリカは日本の勝利を望んでいる。日本はわれわれのゲームを戦っているのだ」と言った。

 というのは、日本が敗北すれば、満洲および朝鮮全域は、ロシアの支配下におかれて、朝鮮半島、日本海、中国沿岸にロシアの艦船が寄港する自由が得られれば、アメリカのプレゼンスは急低下するからだ。

 日露戦争の早期講和を計らなければ、日本の敗北を意味していたから、アメリカは、講和仲介しないわけにいかなかった。

 日本が戦費借金を負った状態で、日本の満洲権益を確保させることは、、アメリカには、
とりもなおさずが、日本が満洲の日米共同経営を了解するだろう、という思惑があった。