アメリカ参戦の衝撃 | 気になる映画とドラマノート

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 アメリカの第二次大戦参戦は、次のような意味で衝撃だった。

 1939年9月、ルーズベルト大統領は、国民に向けて次のように語ったからである。

「わがアメリカ合衆国は、このヨーロlッパの戦争の局外にたちたいと考える。

わたしは、アメリカがヨーロッパの戦争に関わるべきでないと信じる。

 わたしは、ここにふたたび、かさねて、国民に対して保証する。

 わたしが政権を担当するかぎり、つまり、諸君の政府に、わたしルーズベルトの力のおよぶ限り、 アメリカ合衆国の平和は、失われることはない、と。」

 ルーズベルトのこの国民に対するよびかけは、いまなら、さしずめノーベル平和賞ものだが、実際は、その後、ルーズベルトは、ヨーロッパとアジアの戦争に突入していく。

 アメリカ国民の90パーセントは、戦争をのぞんでいなかった。

 ルーズベルトは、その平和を望むアメリカ国民世論を、戦争やむなしという方向に変えて、それが、国民自らの意思なのであって、けっして、国家の強制ではないと思わせることに成功したという意味では、世界史に稀に見る極めて有能な世論誘導の政治家であり、戦争という非人道的手段によって、アメリカの繁栄の土台を決定的につくりあげたという意味で、米国史に残る大統領だった。

 アメリカ国民は、「ヨーロッパには、関心がないわ」「戦争するなら、ご勝手に」とニュースフィルム(当時は、映画館で、映画鑑賞のついでに、ニュースが流れた。)で、インタビューを受けると答えて、それが、一般的な考え方だった。

 アメリカ国民は、「ルーズベルトが選挙でも、1939年9月の談話でも、「戦争はしない」と言ったことを信じて、むしろ、大統領が率先して、アメリカ国内で、ヨーロッパを助けようという声があがったとしても、大統領が説得してくれるだろう、とさえ思った。

 一般国民は、9割が、アメリカ参戦反対。
 そして、文化人、知識人レベルでは、半分半分の状態だった。リンドバーグのように、アメリカは、戦争に関わるな、もし、ヨーロッパがドイツ支配のヨーロッパになっても、それはそれで、平和に交際すればいいのだ。戦争にアメリカが参加するべきではない、」とさえはっきりいった。

 そして、アメリカ人は、イギリスが、英国とドイツの間の戦争にアメリカを引き込もうとしているのではないか、冗談ではない、といらだっていた。

 1940年アメリカ大統領選挙の直前、フランスはドイツに占領されて間もないころであり、それでも、アメリカは、イギリスに資金援助はしても、アメリカ自身が参戦する方針はとらなかった。

 大統領選挙は、ヨーロッパに情勢に対して、アメリカはどう対処すべきかが争点になった。

 共和党の候補者ウエンディル・ウィルキーは、戦争にアメリカが出るべきではないと主張した。

 また、共和党は、ルーズベルトを非難して、「ルーズベルトは、あなたの息子さんをけっして戦場に送らないと、前回の選挙の公約で言ったではないですか?」と彼の公約違反を許すな、と指摘した。

 民主党のルーズベルトは、三回目の立候補であり、これは異例のことであったので、これ自体非難された。

 ルーズベルトは、選挙の洗礼を受ける前にアメリカを「戦時編成」に踏み切らせた。
 もし、アメリカが敗北していれば、この時のアメリカは、「軍国主義」の様相を呈していたといわれたろう。

 「軍備増強のため、選抜徴兵制を、どこにも、宣戦布告していないうちに」開始したのである。

 「壮健な市民は、国防のために兵役招集に従う義務は、アメリカ開拓時代からのことだ」と言った。
 これで、「日本の軍国主義」とどこがちがうだろう。

 国家が理屈をつけて、国民に召集令状を送って集合させた、という点、まったく同じなのだった。

 しかし、徴兵第一号は、だれだれさん、と公衆の前で公開するセレモニーをおこなったあと、続いての選挙日程では、ルーズベルトは、国民の反感を買わないように、周到に、「戦争はしません」と公約した。

 1940年11月5日、アメリカ国民は、戦争しないというルーズベルトの公約を信じて、ルーズベルトに政権を託した。

 ルーズベルトは、国民に「戦争しない」と約束したため、四苦八苦して、イギリスに武器貸与をしたり、イギリス艦船を護衛したりした。

 これに対抗してアメリカの炭鉱労働者や航空機産業の労働者が50万人規模のストライキをおこなって、イギリスへの軍事援助を阻止しようとして、アメリカの警察と衝突した。

 議会で共和党は、「外国の民主主義を守るためにアメリカの民主主義を破壊するようなことをしてはならない」と過剰なイギリス支援は、アメリカ国籍の船舶が攻撃される自体になり、そうなれば戦争になる。

 もっとアメリカは、中立を厳守するべきだ、とルーズベルトを非難した。

 しかし、この懸念をあざわらうかのように、「サセックス号事件」、「ルシタニア号事件」が起こり、アメリカ国籍の船が攻撃されたというので、アメリカは戦争に傾いていった。

 こうした状況の中、真珠湾攻撃の知らせがアメリカ政府にはいった。

 いまでは、当時のアメリカの中枢は、日本をこれだけ禁輸でしめあげれば、日本は戦争にふみきらざるをえないはず、と知っていたが、一般的立場にあった知識人のひとりケネス・ガルブレイスでさえ、日本の先制攻撃のニュースを聞いて、「受けて立たねばならぬという使命感を感じた」という。

 1941年12月7日、ルーズベルト大統領は、議会に向けて、「宣戦の要請」をおこなった。
 「日本は、「いわれのない卑劣な」攻撃をしかけてきた」と説明した。

 しかし、この時、議会は、ルーズベルト政権が日本に対してどのような交渉をして、戦争回避の努力をしたのか、それとも、むしろ開戦を余儀なくされるように追い詰めたのか、まったく知らされていなかった。

 後に、共和党は、ルーズベルト政権が日本を徹底的に追い詰めていたことを知って、驚き、事実を知らせずに、アメリカの青年を戦地に向かわせて、死に追いやったのは、ルーズベルトだと憤激した議員もいた。

 この4日後に、ドイツはアメリカに宣戦布告する。
 後世の史家の常識では、これはヒトラーの意外な失策だった。
 というのも、ヒトラーは、当初、第一次世界大戦の敗北の教訓に学んで、アメリカの参戦を回避し続けるべきだという判断を持っていたのであるが、引き続く戦争が、ヒトラーに油断を招いたらしく、ドイツが、宣戦布告するならば、ルーズベルト大統領には、もはや、「戦争はけっしてしません」という公約を守らねばならないと苦慮する必要がなくなったのである。

 のちに、アメリカの歴史家は、ドイツがアメリカに宣戦布告しなければ、アメリカ国民は、ヨーロッパには、かまうな、アメリカは日本だけを相手にしていればいいと考えた可能性がある。

 ドイツが、アメリカよりも先にアメリカに対して、宣戦布告したことは、もともと、参戦したかったルーズベルトにとって、非常に好都合だった、と。


 12月8日をもって、アメリカ国内には、アメリカ国籍の在米日系人に対する烈しい差別が起こった。

 しかし、同じ連合国の敵であるはずのドイツ人、イタリア人は差別されなかった。

 というのも、ニューヨークの人口の半分は、ドイツ移民、イタリア移民によって成り立っていたからだった。

 さらに日本人差別に拍車をかけたのが、在米中国人の反日宣伝にアメリカ人がのせられたことだ。

 いまや、アメリカは、フランク・シナトラ、ボブ・ホープ、ビング・クロスビーなどの人気芸能人を押し立てて、戦時オークションなどをして、戦時総動員体制に入っていった。

 アメリカ国防婦人会会長は、「わたしも、息子ふたりを戦場に送りました。「神のご加護があると信じています」と演説した。