ヨーロッパの戦争を考える 2 | 気になる映画とドラマノート

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 ヒトラーが力を持ち始めた当初、チャーチルはフランス軍がいるから大丈夫と言っていた時期がある。
 しかし、その頃、フランスはすっかり平和ぼけして、第一次世界大戦時代の戦争の方法に固執していた。

 むしろ、ヒトラーは、その点、きわめて有能だった。

 なんと、フランス軍は、ドイツと戦う時、騎兵に頼るていたらくだった。

 フランスの政治状況は、ちょうど第二次安倍政権直前の日本の状況と同じように、次から次へと内閣が変わり、一年以上続く政権はめったになかった。

 日本人はアメリカ映画によって、戦後世界史を眺めたので、ドイツに対するレジスタンスの姿しか知らないが、じつは、ヒトラーがドイツの政権についた時、フランスは、ちょうど日本の民主党と自民党の対立のように、果てしなく、右派と左派が争い、左派は共産主義を志向し、右派は、ヒトラーに宥和的だった。つまり、どっちもどっちのていたらくのうちに、国力を減衰していたのが、フランスの実態だった。

 当時のフランスは統治能力を失い、間抜けなことに、対ドイツ徴兵は、熟練工までめちゃくちゃに徴兵したために、工場が機能停止した。

 銃後の国民は、戦争がさしせまっても、まだ、浮かれたシャンソンがはやり続けたように、腑抜けになっていた。

 フランス軍の兵士は無気力で、ドイツ軍を発見しても攻撃しようとしないので、将軍が、なぜ、撃たない?と聞くと、撃てば反撃されるでしょう、と言った。

 つまり、ヨーロッパのヒトラーとの戦いは、フランスとイギリスのゆで蛙状態からはじまっていた。

 ドイツ軍は、先手先手と仕掛けたが、フランス軍は、事の起きるまで待つ姿勢に徹した。そして、気づくと、ドイツにどんどん追い込まれていた。

 ドイツ軍は、ミシュランガイドを手にした先遣隊をバイクで乗り込ませて速攻作戦で食い込んで行った。

 フランスのガムラン将軍が一週間かかる思えば、3日、3日かかると思えば、1日でドイツはフランス本土へのムーズ川を渡って侵攻した。

 フランスの首脳は、イスに座り込んで泣き出す始末だった。

 そして、フランス軍の戦車は故障続出という始末だった。

 戦後、アメリカ映画に登場するフランス人のレジスタンス活動は、遊びほうけて破産した男が、破産した後に、目が覚めてがんばった、というようなもので、ドイツのやる気にフランスの堕落が後押ししたような具合だった。ガムラン将軍(68歳)の更迭こうてつの後に、対ドイツのフランス軍首脳のトップ2の年齢を見ても、いかにフランスが無力化していたことがわかる。

 総指令官のウェーラン将軍は、73歳。ペタン元帥は、84歳だった。しかも、ペタンは、スペイン駐在のフランス大使で、戦略戦術を熟知していなかった。

 これでフランスがドイツに対して持ちこたえるわけがなかった。

 フランスの庶民は、フランス軍に見捨てられて、1200万人の被災者があてどもなく歩いて、故郷の村を追われた。

 イギリス軍はフランス軍の劣勢を尻目にダンケルクを撤退したので、フランスは、自分たち自身のふがいなさを痛感しながらも、イギリスを非難した。

 このときになって、フランスは、徹底抗戦派のド・ゴールらを起用したが、遅すぎた。

 セーヌ川直前で、フランス軍の最後の抵抗があったが、3日ももたずに、フランス軍は敗北した。

 6月14日、フランスの首脳部が逃亡して、パリ市民だけになったパリをドイツ軍が占領した。

 6月22日フランスの降伏調印式がフォンテーニュの森でおこなわれ、休戦協定が結ばれた。

 パリは、ドイツの支配下で4年間、観光客を迎える町にもどっていた。

 チャーチルは、フランスの戦いは終わり、イギリスが戦うときがきた、と言った。

 一方、その頃、ソ連の首脳部は、独ソ不可侵条約がありながらも、ドイツのソ連侵攻に身構えていた。

 独ソ不可侵条約とは、ドイツが、ソ連に気兼ねなく、ポーランド、フランスに攻撃を仕掛けるための保険だった。

 ソ連のスターリンにしてみれば、ドイツがフランスと戦っている間に、ソ連軍の立ち直りと充実をはかる時間稼ぎにした。(なぜ、立ち直る必要があったかというと、ソ連内部の権力闘争で、軍管区の指令官全員、師団長全員、連隊長の多数を粛清して、入れ替えをはかっている最中だった。もし、この時、ドイツがソ連に攻撃をしていれば、ソ連は完敗していた。したがって、ソ連は喜んで、不可侵条約を結んだ。

 スターリンは、フランス陥落を聞くと、いそいで、ソ連軍の建て直しを図った。フィンランドを攻撃、エストニア、ラトビア、リトニアを侵略して、併合し、ルーマニアの一部も征派した。これは、正真正銘の侵略だったが、これを後に、アメリカのルーズベルトは見て見ぬふりをして、ソ連と結合した。 

 戦後日本の左翼は、無知蒙昧にも、ソ連が、ドイツの対英国戦の間に、バルト三国に侵攻していたことに無関心だった。