ヨーロッパの戦争から見る日本 | 気になる映画とドラマノート

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 1933年、国家社会主義ドイツ労働党・・・・ナチスが政権をにぎった。

 まず労働党というのが、歴史にいいことをしたためしがない。

 北朝鮮の権力は、朝鮮労働党がにぎり、イギリスは、労働党時代に、生産性は悪化し、国民経済は、悪化した。

 そのとき、ドイツには、社会主義者、共産主義者もいたが、彼らは、たかをくくっていた。

 ヒトラーの独裁とは、「議会の承認を不要とする法案を通したことからはじまった。

 最初におこなったのは、ハイネの詩を含めて、ユダヤ文化をドイツ文化から一掃する文化革命だった。
 毛沢東もまた、文化革命をした。

 政治権力が文化革命をする時が独裁の証拠であり、恐怖政治の確たる兆候だ。

 人々はお祭りのように、巨木を組んで、火をつけて、そこに書物をくべた。

 ドイツは当時、数百万人が失業して、貧困にあえいでいた。

 ヒトラーの公約は、「パンと職業」を保証するというものだった。

 日本の左翼がむなしいのは、日本に失業者が、世界各国に比べて、極めて、低い率にとどめられ続けているにも関わらず、右傾化などと言っても、真に平和を擁護せんとする知識人にとって、危機感を持ちようがないし、国民は安楽な生活に満足しているので、真剣に反政府の耳を貸すものではないからだ。

 したがって、経済の破局的な状況がなくても、国民を反政府に集合させるには、原発問題が一番もっともらしく、反原発を叫ぶことは、科学的知見を持って、抗議するわけで、いっぱしの知識人になった気分になれるのである。俗悪である。

 1934年6月30日、ヒトラーの政敵がろくな裁判もうけずに処刑された。

 ヒトラーを迎える大群衆の個々の人々は、彼をなんでそんなに歓呼して向かえるのか、わからなかったが、ヒトラーが近づいてくると、カリスマに圧倒されて、いつのまにか、自分も皆とともに、喝采し、歓喜の叫びをあげている自分を見出した。

 それは、ユーフォリア(陶酔)に支えられた政治権力だった。
 日本の場合、こういう熱狂と陶酔が国民から、政府の指導者に向けられたという過程はない。

 現代の日本国内の米軍基地では、「基地開き」という行事があって、地元のにほんの子供たちが、基地の中に入って、米軍の兵士たちが、たとえば、日本のテレビ局の「お台場夏祭り」に似たミニチュアの祭りをして向かえる。日本の夜店の焼きそば、たこやきのように、アメリカ兵がカップケーキやハンバーグ、ホットドックを作って安く売ったり、射的のようなことをしたり、・・・そして、ジェット戦闘機の座席に乗せたりする。

 ヒトラーは、最初、ドイツのこどもたちに、これと似たようなサービスをして、軍に愛着を持たせた。

 当時、政府の公共事業投資政策の効果はまったく知られていない中で、ヒトラーは大胆で、大規模な公共投資をおこなって、これは、ドイツ経済を急回復させたので、国民のヒトラー政権に対する、信頼を磐石にする元となった。

 日本も、アメリカも、公共投資がなぜ、さほど効き目がなくなったかというと、経済全体に占めるサービス業の規模が膨大になってしまったため、公共投資だけでは、経済に顕著なインパクトを与えることができなくなったからだ。
 
 バラマキがどうしたこうしたという問題ではなく、建設関係の公共投資が経済全体に占める重要性が高かった時代には、非常に効果的な政策だったのであり、そのときはバラマキではなかった。

 また、「バラマキ否定論」に固執して、必要な「補修」も否定するのは、愚かの極みである。

 イギリス、フランスはポーランドと同盟関係にあったので、ドイツのポーランド侵攻は、イギリスに対する宣戦布告に等しかった。

 イギリスのチェンバレンは、国民に向けて、こう演説した。
 「ドイツに対して、ポーランドから撤退せよ、と通告したが、ドイツが撤退しないので、英国はドイツと戦争状態に突入した」と。このように、他国の同盟国への本格侵攻は、ただちに「戦争状態への突入を意味した。

 ポーランドの首都ワルシャワはあ、突然真っ先に、壊滅した。
 そして、ドイツとソ連に分割支配された。

 イギリスでは、国民が防毒ガスマスクをして、防空壕に入る訓練がはじまった。
 ところが、じっさいには、この時、ドイツは毒ガスをもっていなかった。
 そして、防空壕非難訓練をしてから、2ヶ月しても、ドイツ軍の空襲ははじまらなかった。
 
 それでも、戦争突入は必至と信じられたので、ロンドンの子供たちは、列車にゆられて、地方の農家に疎開した。

 イギリスでは、志願兵制度ではなく、召集令状によって、兵士は応召した。
 そのような意味では、日本と同じだった。
 この時点で、英国の失業者は150万人。国家財政は逼迫していた。

 ドイツに対して、「戦争はよくない」とビラまきするだけで、爆撃はしなかった。
 なぜ、ドイツを爆撃しないんだ、と追及されると、キングズリーウッド空軍大臣は、ドイツが報復するからだ、と答えた。戦後日本人は、日本に海軍大臣、陸軍大臣があったことを知って、だから軍国主義なのかな、と思った人もいたろうが、イギリスには、空軍大臣、陸軍大臣、海軍大臣があった。アメリカも同じである。そして、国民経済に戦争のする余裕の無い時代に、大きな負担を国民に負わせて、徴兵制を布いたという点でも、日本とイギリスは同じだった。

 イギリスは、ヒトラーから自国を守るために、日本は、アメリカアから日本を守るために、無理を強いられたと言ってもよい。

 アメリカの経済力は実に強大だった・・・というのも、戦争のための物資を、アメリカの産業が一手に引き受けて、利益を受け、潤った財政的余裕資金を、アメリカは、中国の蒋介石政権の支援に回して、日本と戦わせた。また、なぜアメリカが蒋介石を支援したかというと、中国が日本に勝利すれば、満洲にアメリカが進出できるからだ。

 このアメリカの目論見は、共産主義革命によって、思惑はずれになる。

 日米戦争を、アメリカは、「世界の正義」によるアジアの野蛮な軍国主義への対抗という形をとりたかったので、英国、オランダにも、参加させた。アメリカは、英国、オランダにも、大きな財政援助を与えつつ、戦争が続く間、アメリカの戦争産業は大もうけし続けた。
 
 この時、東南アジア一帯は、フランス、イギリス、オランダの支配下におかれて、東南アジアの人々は極貧状態におかれていたので、当然、日本が英国、オランダに宣戦布告されたことは、すなわち、勝てば、東南アジアの独立を結果することはいうまでもないことだった。

 日本の海外進出を戦後、朝日、岩波系文化人は、「侵略」と言ったが、現在、東南アジアの人々は、日本の家電、お菓子、調味料が大好きである。また、発電技術、環境保全技術について、日本の支援を心から待っている。日本は戦中の侵略を反省したということなのだろうか。

 そうではない。戦前も戦後も、東南アジアの貧しい人々に思いやりを持っていたのは、日本人であり、アメリカや英国はまったくほったらかしだった。

 だからこそ、東南アジアは、独立後、70年近くたって、日本の支援を待つまでもなく、アメリカやフランスの支援によって、すでに発展していますよ、おかまいなく、なんてことになっていない。

 日本がフィリピンやベトナムの飲めない井戸水を浄化することを技術、資金、人、あらゆる点で支援しつづけている。この東南アジアへの支援の精神は、戦前、戦中にも生きていたもので、そのまごころが、曲解されていただけだった。ちょうど、原発職員がすぐに逃げ出した、と朝日新聞が嘘をついたように、日本の東南アジアとの関わりは悪意の解釈をされた。