アメリカという国の起源 その2 | 気になる映画とドラマノート

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 1753年から1760年まで、イギリスとアメリカの植民者は、北米大陸において、フランスとインデイアンの連合軍と戦争をして、モントリオールとケベックから、フランスを追い出した。

 この戦争は、フランスが北米から去ってみると、おもいがけない結果をもたらした。アメリカの植民者はイギリス本国が邪魔になってきた。

 また、英国国教会のアメリカ植民地人への押し付けは、元来がクエーカー教徒、ピューリタンなどの反英国国教会派の多いアメリカ人には、つねに煩わしいものだった。

 1765年には、まだ北米のアメリカ植民地から、イギリス議会に議員は送られていなかった。そのことは、税金について、北米の植民者の大きな不満のたねになった。

 特に新聞、小冊子、暦などの文書すべてに、印紙を購入して貼らなければならない、という法案が日程に上った時、アメリカ植民地人はイギリスに激しく抵抗して、軍隊に強制デモされない限りは、いうことを聞かない、と争った。

 結局、この印紙税に関する紛糾は、イギリス本国の政権交代で、有耶無耶になった。
 しかし、2年後、ふたたび、課税問題が火を吹いて、アメリカ植民地人が輸入する鉛、塗料、お茶などに課税して、イギリス財政の歳入にしようとすると、アメリカ人は、イギリス製品の不買運動で対抗した。
 1770年には、アメリカ人の市民の一団がイギリス兵と衝突して、5人が死んだ。

 ボストン「ティーパーティー」は、イギリスの東インド会社の茶に課税した上で、北米のアメリカ人に買わせようとするもので、これをアメリカ人は不当な課税だと考えた。この抗議の最も強力な論客になったのが、ベンジャミン・フランクリンだった。

 彼らボストン「茶党」は、課税された茶が到着すると、海にたたきこんでしまった。

 これには、フランクリンも驚いてそのような犯罪行為は、各国の支持を失うと心配した。だが、イギリス側の取った対応は、さらなるマサチューセッツ植民地への締め付け、自治権の制限、カトリック教会の押し付けなどだったため、アメリカ人は、イギリス本国への反発を強めた。

 1775年、アメリカと植民地者大陸連合とイギリス本国の戦争がはじまった。

 ベンジャミン・フランクリンが大陸会議の代表に、ワシントンが、総司令官になった。
 この時に、アメリカ人に普及した書物、トマス・ペインの「コモン・センス」が、アメリカ人の「君主制」嫌いの基礎観念を形つくった。

 コモン・センスの中で、トマス・ペインは、「君主制は自由と矛盾するので、王を元首としない共和制を追求するべきだ」と言った。この考えは、アメリカ人の英国ジョージ三世への追慕の念を断ち切る役割を果たした。

 独立宣言は、特にジェアファーソンとフランクリンが二人で相談して書かれた。
 イギリス軍が降伏したきっかけは、フランス軍、アメリカ軍の連合軍に敗れたからだった。

 1783年にアメリカが独立したとき、南米と西部には、スペインが残り、カナダはイギリス領だった。

 ベンジャミン・フランクリンは、イギリスとの戦争の最中に、「われわれの信条は全人類の信条であり、自分自身の自由を守ることで、全人類の自由を守っているのだ」という意味深な、ある意味でとても僭越な事を言っている。なんで、「全人類」なのか、さっぱり理解しがたい。

 また、トマス・ペインは、「アメリカの大義は、大部分、全人類の大義である。」と言った。しかし、この言葉は、かなり異常な言い草なのである。というのも、ロシア革命も、中国の共産主義も、北朝鮮も、イラン革命も、皆それぞれに、我田引水に我が国の革命は言って言えないことはないのであり、アメリカもまた、結果が出ないうちから、自国の大義が「全人類の大義」だなどとは、相当奇妙な姿勢が現れているといわざるを得ない。

 フランクリンやトマス・ペインに限らない。フランクリンが後援した新聞の社主フィリップ・フリノーは、「重要性から言えば、アメリカの独立は、キリストの誕生に匹敵する出来事である、とこれまた、結果のでない
る、とこれまた結果のでないうちに、とんでもない自己愛に満ちた表現をしている。実際、アメリカは、北部連合と南部連合が内戦をして、60万人の犠牲者が出るのである。

 もし、どうしてもアメリカが、「全人類の大義に関係あるとか、キリストの生誕に匹敵する意味があるというなら、ある意味、全人類が、アメリカという国の行動様式によって大量戦争死や、人種差別の問題に直面させられるきっかけになったということかもしれない。

 ジェファーソンは、合衆国憲法が、「かつて人類に示されたもっとも、賢明なものであることは疑いの余地がない」とこれまた、実際にどのように働くかをだれも知らないうちから、異常な自信をみせた。

 1793年にフランスでは、ルイ16世が処刑され、ジャコバン党による虐殺がおこなわれたが、ジェファーソンはフランスの革命派を支持した。

 ジョージ・ワシントンがトマス・ジェファーソンに、初代国務長官就任を求めた頃、ちょうどフランス革命の進行中で、ジェファーソンは、友人のフランクリンに、「フランスは、アメリカで徒弟時代を過ごし、いまや一人前になろうとしているんだ」と言った。

 だいいち、ジェファーソンがもし、150歳まで、いきながらえたならば、ジェファーソンは、アメリカが、自分の考えていたのとは、まるで違う社会になったことに驚いただろう。

 というのも、ジェファーソンは、アメリカ国家を、独立自営農民を主体とする農本主義者だったからである。彼は、「われわれの工場は、欧州にとどめておこう。」とまで言った。

 1798年、第二代大統領ジョン・アダムズとフェデラリスト党は、外国人法、治安法を通過させた。これは、日本の治安維持法の先祖のような法律で、大統領を誹謗中傷する記事を書いた者を起訴するという法律で、実際に実際に反対派の下院議員が投獄された。

 第三代大統領選挙戦は、ジョン・アダムズの強権政治に批判的なジェアファーソンが対抗馬として立候補した。選挙戦では、ジェファーソンが、黒人奴隷のひとりに7人の子をうませた、と暴露合戦が行われたが、後世の史家は、ジェファーソンが独身時代、10代の黒人奴隷、サリー・ヘミングスと同棲していたことがあるとした。しかも、サリー・へミングスは、ジェファーソンの正妻の実父が黒人奴隷に産ませた娘だった。

 しかし、このスキャンダルもものともせず、ジェファーソンは、第三代大統領になった。
 黒人奴隷の彼女との件とは別個に、ジェファーソンの思い描く自由、平等は、白人男性のもので、女性、黒人、インディアンは眼中になかった。というのも、ジェファーソンはいっさい、そうした、少数派を擁護する政策を取らなかった。