大島渚 御法度 | 気になる映画とドラマノート

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日本映画「御法度」

1.まずこの映画には、大島渚の「市民運動」=「政治運動」的なものへの憎悪がモチーフになっていると言っていい。そういうくだらないことに執着したのが大島渚だといってもいいし、いや、そもそも、芸術家とは、自分の関心に忠実であるほかなく、人がくだらなきと思えることでも、熱心に映画化することが、映画人の大前提なのだ、と言ってもいい。

2.「市民運動」=「政治運動」的なものへの憎悪がモチーフになっているその証拠に、伊藤甲子二郎との会話で、土方歳三は、政治情勢の分析にはまったく興味がない、と言っており、近藤勇は、長州藩が幕府よりも先に外国と戦争を始めたことに対する解釈が支離滅裂になっている、というふうに描いている場面がある。

3.その上で、「御法度」の世界は、沖田総司も、土方歳三も、政治情勢を論ずる場面はこれっぽちもなく、ただただ、新撰組内部における男色に関する会話が延々と続く。

4.これは、外国の人々にとっては、新撰組とは、民間の団体だという位置付けが理解できないことが大きく、市民政治活動や左翼や右翼の派閥組織の暗喩でもある、という理解が不可能に近い。そこで、この映画の大半のモチーフは、外国人にわからない。だからこそ、外国人には、「わかった、「サムライ」とは、「ゲイ」なんだ、という茶化すような感想や、「まったく意味不明。誰か、俺に説明してくれ」という感想も出てくる。

 だいいち、大島のこの切り口は、まるでヅランスのレジスタンス運動やベトナム反戦運動、アメリカの公民権運動のブラックパンサーの内部に男色が蔓延していたとでもいうような映画が成り立つとでも言うような、外国人もびっくりのけったいなモチーフの作品なのだ。

 これは、大島渚の「新撰組」などの、武張った愛国行動への、茶化しにまでいたる深い憎悪なしには、成り立たない。

 5.土方歳三は、田代が湯沢を殺した犯人だと予測するが、その予測が実は、間違っていると悟ることが、土方の恥辱でもあるのは、予測をはずしたことはもとより、はずしたとたん、自分がそのような誰が誰の思い人であるとか、誰と誰が男色の相手であるとかおおまじめに考えていたこと、およそ、政治的大状況のことなど、自分には図りきれぬものだというこ事実に直面するからだ。

 6.おそらく、湯沢を殺したのは、惣三郎であろう。
 なぜ、殺したかといえば、湯沢に首を絞められた惣三郎には、仮に思い人に殺されるにしても、こんな間抜け面のさえない男ではない。沖田に愛されることが、惣三郎が願かけした内容であったにちがいない。

 湯沢はきたるべき沖田との秘密の交際にとって邪魔だから、殺した。

 7.そして、沖田が山崎を襲撃したのは、惣三郎が山崎の手をにぎってみせたたことからへの、沖田の嫉妬による。

 8.惣三郎が田代に言ったなぞの言葉とは、あの世で契ろう、とでも言う偽りの甘いささやきだろう。

 9.いずれにしても、それらの謎は、すべて、大島渚の「つもり」を当てる意味しかない。架空の事件であって、実在の史実の謎解きではないし、ましてや、ドストエフスキー作品のように、よくよく意味があって、作られた事実が伏せられているというわけでもなく、所詮は世迷い事であって、新撰組が「男色」集団だったわけではないのだから、真剣に考えれば、考えるほど、大島渚の思う壺にはまることになる。政治というものは、考えに値するなにほどのこともないのだ、人間は畢竟性欲に翻弄されるちっぷけな存在だ、というように。