アダム・スミス「国富論」のかんどころ | 気になる映画とドラマノート

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国富論第5編第一章にとてもおもしろいことが書いてある。

専門職において、従事する人の努力は、「努力をしなければならない必要度」に正比例する。

その必要度は、その職が、財産形成と生活費用の唯一の手段である場合には、最大である。(つまり、特段、遺産相続などが無い場合)

彼らは、一年の間に一定の価値になるだけの仕事をしなけれなばならない。(結局は。)

そして、自由競争の条件があるならば、他人を就職から押しのけようとする競争者の対抗関係があるために、彼(彼女)は、一定の程度、几帳面に仕事をしなければならない。

いくつかの特定の専門職では、報酬が大きいために、精励をかきたてるが、最大の精励をかきたてれるために、「報酬の大きさ」は、最大の要因であるわけではない。

 対抗関係と競争のほうが、報酬の大きさよりも、努力の動機になる。

 競争の必要のない教師の場合には、教師は努力精励する必要性がないことになる。

 アダム・スミスは、当時のオックスフォード大学の教授たちの質の悪さを皮肉っている。

 骨の折れる任務を遂行してもしなくても、俸給が同じであれば、手抜きがはじまり、競争関係によって、優位のものが、残れるならば、精励行動が起きる。

 分業が進むにつれて、国民の大多数は、きわめて単純な作業に従事するようになる。

 しかも、大半の人々の理解力は、必然的に、かれらの職業によって形成される。

 一生を少数の特定の職業の命ずる作業に従事し、特定の結果を生み出す人は、困難を除去する解決策を見出すために、自分の理解力を働かせたり、創意を働かせたりする必要がない。

 そもそもそういう困難がおきないことを願ってもいるし、事実、困難が起きないこともあるのだから、結果、無知で愚かな存在になる。

変化のない生活の一様さが、自然に彼の精神の勇気を腐敗させ、それは彼の身体的活力さえ腐敗させる。

 政府が防止するために、いくらか骨を折らない限り、(つまり図書館制度など)近代社会は、そのままでは、人間を必然的に堕落させる。

 これは、次のことを考えれば、わかる。農耕社会でも、狩猟社会でも、個々の人々は、自然に対する理解力、人間関係における勇気、謙譲の徳目において、現代人よりも本質的にすぐれていなければ、生存できなかったであろうこと。

 皮肉なことに、現代人は、栄養状態と衛生状態がよいために、愚鈍な状態で生き長らえるのであるが。