永遠のゼロについて 2 | 気になる映画とドラマノート

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映画の中で、「この物語を語り伝えていかなければならない」というセリフの「物語」を、古屋経衡は、「フィクション」のことだと思っているようだ。

 そして、「この物語」とは、「この映画そのもの」のことだという。

 まったく馬鹿げた見方である。

 この世界には、どんな名作映画文学作品も、特別に語りつがれねばならないと云われるほどのものは無きに等しい。なぜかと言えば、古典として残る作品は、それ自体、じつは一人の人間が読みきれないほど、見切れないほど人類は蓄積しているからだ。あえて一作品についてこれは語り継がれるべきと言ったって、自分の好みを言っているにすぎない。

 そんなことは、映画好きな人間なら痛いほどわかっているだろう。

 滑稽なのは、古谷が普段は宮脇淳子の尻馬に乗って、韓国ドラマは、史実に反するウソだらけだと言っておきながら、「永遠のゼロ」の時代考証的な齟齬を私的されると、フィクションというのいは、暴れん坊将軍でもなんでも、ウソなものだ、としきりに言っていることだ。

 問題は、古谷が劇中のセリフ「この物語を」というセリフを監督、脚本家が意図的に、「物語」と表現していて、これは、「フィクション、すなわち、この作品そのもののことだ」と言っていることになる。これは、突拍子もない解釈だ。

 じつは、日本語の「歴史」と「物語」は、まったく違う概念と受け取られるが、フランス語では、歴史イストワールも、物語イストワールも、重なる概念で、この映画の劇中で言われる「この物語」は、フィクションの意味ではなく、「史実だけども、物語のような始まりと終わりがあり、悲劇が含まれる」という意味で、「物語」と「思い出」を比喩的に「物語」と言っているのだ。

 なにも、古谷の深読みするような、物語、フィクションとあえていっているのは、この映画そのものをひきついでほしい、と言っているわけではない。あくまでも、劇中としては、主人公の祖父の事実が「物語」と言っていいような「始まりと展開と終わり」と悲劇性とを含むから、「物語」と言っているのであって、「物語とはこの作品そのもの」だなんてはしゃいで言うのは、実にばかげた勘違いだ。

 わたしは、上の動画で言う、「韓国の映画は日本よりも上だ、というのも、「シルミド」が質が高いというのも、同意しない。日本映画のほうがはるかに上であるとわたしは思う。とくに、「シルミド」などは悪い部類だと思う。

 ただ、映画にせよ、ドラマにせよ、韓国人の気質をまざまざと知ることができるのであり、それ以上でも以下でもない。映画技法、ドラマ作劇術からいえば、日本のほうが上なのは間違いないが、妙な気がするのは、ただし、その優れた日本作品に、在日韓国人の映画脚本家もひとりやふたりではなくふくまれており、いまや、スポーツ芸能同様、映画も、かなり在日の寄与する部分も事実なのだから複雑なところだ。(たとえば、「愛を請う人」「フラガール」)

 古谷のいうほど事は単純ではない。

 古谷は韓国ドラマは、日本の地上波でどしどしやっていいというが、冗談ではない。

 どう考えても、特別「どしどしやってもいいほどのもの」のではない。単に世界各国には、いくつかの見るに価するものが、スペインにせよ、台湾にせよ、イランにせよ、ギリシャにせよ、あるまでのことで、古谷のような口からでまかせヤロウは、韓国映画をことさら、絶賛しだすから驚く。