永遠のゼロ 神風特攻隊はなぜ | 気になる映画とドラマノート

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 古屋経衡は、この映画のテーマは、「主人公が、死にたくないと言っていたのに、なぜ特攻隊に志願したのか」それは自分が死んでも、自分の考えが継承されれば、命はなくなっても、考えは永遠だ」からだ、という。

 これは間違いだ。特攻隊で死んでも、戦争中に病死したり、流れ玉であたっても、「考えが継承される」なんて思った兵士はまずいない。

 むしろ、特攻隊の人々は、自分の死と流れ玉で死んだり、病死した兵士とは、等価だと思っていたろう。

 この映画は、そういうことよりも、「自分探し」ではなく、「祖父探し」「父祖の歴史の欠落した日本人」を自覚するという物語なのだ。

 そして、もし、「なぜ特攻隊に志願したのだろう」という気持ちが起きるのか、といえば、保守派の古屋経衡自身がトンチンカンな解釈をしているように、右派にも、左派にもこの問題は想像しえない時代になった、ということもまたこの現代の特徴だっと言っていい。

 特攻隊とは、「本土決戦」の思想を含む。

 つまり、もはや理屈にあわなくても、「戦う、屈しない死のうと国がなくなろうとどうでもよい(伝える考えなどはない)」という意思が特攻隊であって、それだけが、戦争中に病死したり、流れ玉であたって死んだ戦死とは違う、「敗戦を自覚したあとの日本人」の行動の現れ方を示している。

 長谷川三千子によると、文芸評論家の富岡幸一郎が「新大東亜戦争肯定論」の中で、(戦艦大和が特攻して沈むことなく、アメリカ軍に捕縛されて、衆目の中、破壊される様子を記録映画に撮られたら、戦後日本人にとって大きな屈辱の記憶として残っただろう)と書いているという。

 また、吉本隆明は青年時代に児玉誉士夫の講演を聞いて、(米軍が日本に侵攻して来たとき、日本人はみな死んでいて、焦土に風がひゅうひゅうと吹き渡っていたら、連中はどう思ったろう、というのを聞いて、吉本は、ああ、いいこというなあ、と思った)と言う。

 北米大陸でインディアンが絶滅し、南米ではインカ帝国が絶滅。オーストラリアでは、アボリジニが絶滅した。なぜ、彼らは、奴隷にならず、絶滅したかと言えば、抵抗し続けたからだ。そのはてに絶滅した。

 戦後日本人は、日本さえ非武装なら、戦争は起きない、侵略はされない、と思っている。
 そして一方では、ノーテンキに消費社会、を享受して、父祖の世代の滅びる寸前まで行ったときのありさまを記憶から消し去って生きている。

 しかし、特攻と本土決戦の思想とは、「屈するならば、死んでも良い」という態度であり、それは、あの会津藩の女たちや白虎隊の自決の心に通じるもので、特攻がまるで受け入れられないなら、アボリジニ、インカ帝国、インデイアン、ハワイ原住民、会津藩の女たちや白虎隊の自決も受け入れられない心情ということになる。

 ちなみに、吉本隆明は、家族のためには、死ぬのはどこかにウソがあるが、天皇のためになら死ねると思った、という。
 そういう意味で、アメリカが日本人は、天皇陛下のために死んだ、というのは、あながちプロパガンダともいえない。

 幕末の尊皇攘夷の斬り合いのなかで、天皇のことを念頭に置いて死を覚悟しつつ斬り合いをしたものも、たしかにいたろう。

 それは、制度的策略やマインドコントロールを超えて、つねに、そのような状況に置かれた個々人のみが知る理路だった。(吉本はいまにも召集令状が来る状態下で終戦を迎えた)