アメリカ映画「アルゴ」 | 気になる映画とドラマノート

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1945年頃のイラン国内には、クルド族という少数民族がいて、クルド語、クルド文字を持っていたが、イランの中でこれを使うことが許されていなかった。

 また、トルコ系アゼルバイジャン族もいた。

 ソ連は北朝鮮を支援して社会主義国家を韓半島に作ったように、イランにクルド共和国とアゼルバイジャン共和国を支援して作るように仕向けた。

 その時、イラクにもいたクルド族が来て、イランのクルド族と合流して、クルド共和国(社会主義)国を作ることになった。

 イランとしては、ソ連が自国の少数民族を支援して、独立国家ができあがったのを見て、ソ連に対して次のように申入れた。

 「イランとしては、ソ連にイランの石油採掘権を与える用意がある。ただし、そのためには、イラン周辺地域のソ連軍をひきあげてほしい」と。

 これを聞いたスターリンは、当初援助を与えてつくらせたクルド共和国とアゼルバイジャン族の共和国周辺からソ連軍をひきあげた。

 ソ連軍のいなくなった両国に対してすぐさま、イランは攻撃を仕掛けて、両国の首脳を拘束して、処刑した。
 これで、少数民族の国家はまたたくまに消えて、彼らはふたたび、イランの少数民族として生きることになった。

 1945年頃、イランには、イギリスとソ連が共同統治するとともに、アメリカ軍が常駐していた。
 ソ連、イギリス、アメリカにとって、それぞれにイランの石油利権が重要だったからだ。

 1951年、イランはイギリス系石油会社アングロイラニアン社を強制的に接収して国有化することを発表する。民間の石油会社よりも、イラン国営会社のほうが、アメリカにとって貿易上不利であるので、アメリカのCIAは、イラン各地でイランの反政府市民運動を扇動して、民族派の首相を退陣に追い込む。

 そして、イランのパーレビ国王とアメリカは親しくなり、イラン政府はアメリカの軍事力の指導を受けることになる。

 パーレビ国王の影響下、イランはアメリカとの友好関係を強め、ソ連は当初の約束をイランから反古にされたことになった。

 アメリカはイランのパーレビ国王をてなずけ、イギリスはイラクのハシム王家を手懐けて、石油利権に食い込んでいた。(したがって、アメリカが天皇を退位に追い込まなかったのは、アメリカの「王制国家」への常套手段のひとつにすぐなく、究極の選択でもなんでもなかった。

 イランにも、イラクにも、王家がイギリスアメリカと結託して、アラブ人の利益をイギリスアメリカに食い物にされている状況に反発する機運が生まれていた。

 これは、日本の戦後当時の労働組合、社会党、共産党が皇室廃止を望んだのと似た状況とも言える。日本の労組、社会党、共産党の共鳴者には、彼らに選挙で投票しない人々は、皇室を支持する(愚かな)農業漁業従事者と考えられたので、天皇に戦争責任があるのだという理由つけの下、皇室を廃止して、農業漁業従事者および零細事業者を説得して、日本を社会主義化しようと考えていた。

 同時に社会主義になるためには、ソ連の援助が必要であり、ソ連の援助を十全に受けるためには、アメリカ軍の駐留が邪魔であるので、日米安保条約に反対した。

 イランにもイラクにも、潜在的に、王家と結託するアメリカ、イギリスへの反感を、ソ連との提携に活路を見出そうとする勢力があった。

  イラン・イラクの反体制派は、イスラム教が中心の反米であり、日本の反体制派は、社会主義中心の皇室廃止と米軍基地反対派だった。彼らは反米の代替物として、ソ連型社会主義をモデルとした。

 イラン・イラクの反体制派は、彼らの国内で多数派だったが、日本の反米反ソ派は、左翼も右翼の常に少数派だった。日本の右翼とは、イラン、イランおけるイスラム教の代わりに神道を中心にして、社会主義もアメリカ文化も合わないとする考えかたを指している。


 そして、日本の「反米反ソ」左翼とは、神道、皇室を非近代的なもとして、否定し、ソ連、中国、北朝鮮を一党独裁と否定。アメリカを産軍複合体国家として否定する考えかたを指す。

 イラン・イラクの両国の一方はイランのパーレビがアメリカ寄り、イラクのハシム王家がイギリス寄りだったのが、まず最初に、イラクの軍隊の将軍がクーデターを起こして、王制を廃止して、ソ連社会主義をモデルとして国つくりを始める。

 日本では、軍隊は天皇と直結していると考えがちだが、日本の軍部にソ連社会主義を人道的で格差のない社会だと共感する軍人が、クーデターを起こして、皇室を処刑し、実権をにぎり、生命の危険を感じたマスコミがいっせいに迎合的な報道をした場合に相当する。

 イラク軍事クーデターは、共産党、社会党の支持を受けて、国有化を進めて行く。

 また、そうした政治はすべて、日本の社会党、や労働組合がよき社会主義の先頭にたつソ連の協力を得て進められた。

 1968年、イラクでは、クーデターによって王制を打倒した社会主義政権内部で、もう一度軍事クーデターが起きる。

 が、このクーデター政権もまた、これはこれでソ連と友好関係を結んだ。

 こうしてソ連化の固定化するイラクを見て、イランのパーレビ国王は、イラン内部の親ソ勢力に暗殺されるのではないか、と怯えた。
 パーレビ国王は、イラン内部の親ソ派を弾圧したが、これがかえって、イラン国民のなかの反国王、反アメリカ、の意識を強めた。

 これは日本で言えば、反米反ソの皇室、神道尊崇派が力を持った場合に相当する。

 イランのパーレビ国王は、イラン内部の親ソ派ではなく、イスラム教原理主義の台頭に気付かす、親ソ派を牽制する目的で、
アメリカと協力して、イラク内の反体制派クルド族に資金提供をする。
イラクは、イランとの国境問題を譲歩すること、アメリカのイラクに対する商業進出を認める代わりに、イラクのクルド族支援をやめるよう、提案。

 一応の合意を得る。

 クルド人を犠牲にして、アメリカはイラク進出の手がかりをつかみ、同時にイラン・イラクの外交関係の安定化を得た。
 
 ところが、イランでは、すぐに、イスラム原理主義革命が起きて、パーレビ国王の王制は崩壊。代わりに社会主義ではないが、宗教原理主義国家が誕生した。

 こうして、宗教国家イランと一党独裁社会主義国家イラクの対立がはじまった。

 アメリカにとって、イラクは社会主義独裁国家、イランは、反米宗教国家ということになった。

 1980年9月、イランとイラクの戦争では、イランがアメリカとの友好時代の武器を使い、イラクはソ連の支援を受けて戦った。

 イラクがなぜ、イランと戦争をしたかというと、イラクにはソ連の支援があり、イランには、アメリカの支援がないのだから、長期戦になれば、イラクが勝つからだ。勝てば、石油利権が拡大し、イラクはサウジアラビアに匹敵する石油国になる。

 この戦争は7年11ヶ月にも及ぶ長期戦になった。

 これは、イラク民族社会主義という「国益戦争」とイランの宗教防衛の戦いになったため、イランの捨て身の戦法が軍事力にまさるイラクに拮抗した。

 2年後、1982年の6月、イスラエルが突然、隣国レバノンに侵攻する。
 アラブ諸国は、イスラエルに対抗するため、イラク、イランの停戦をよびかけるが、イランはイラクを攻撃し続けた。

 このイラン・イラク戦争の両国の消耗のなか、両国それぞれの少数民族クルド人は、双方の国内で独立を主張し始めた。

 イラクはイラン内部のクルド人を支援した。(極論を言えば、沖縄の左翼は、日本政府と内戦をして、中国に支援してもらいたいというところかもしれない。)

 イランはイランで、イラクの側のクルド人を支援した。

 また、クルド人はイラン内部の反イランクルドとイラク内部の反イラククルドというように、反目した。

 イランもイラクも、自国のクルド人は弾圧して、他国のクルド人には、親切にした。

 イランは戦争兵器の輸入のために、アメリカに宥和政策を取り、大量の兵器をアメリカから購入するとともに、アメリカの機嫌をそこなわないように、ホルムズ海峡での戦闘を避けた。

 同時に、レバノン国内の反米組織が、アメリカ人のジャーナリストらを人質に取ると、アメリカは、イランに武器供与をする見返りにイランのホメイニから、レバノンのイスラム原理主義者の説得を依頼する。

 1981年、イスラエルは、イラクと宿敵であり、イラクを消耗させてくれるイランは、イスラエルにとってありがたい存在だったので、イスラエルは、アメリカ製砲弾を大量にイランに安価で提供した。同時にイスラエルはイラクの核開発施設を電撃爆撃した。

 3年後、1984年、イランに武器を売ってきたアメリカは湾岸の不安定に危機感を抱き、イラクに交渉を持ちかける。

 イランのほうが、イラクよりも、宗教狂信的要素が色濃く、停戦に応じそうもないと判断したからだった。

 これに対してイランは慌てふためいて、アメリカを憎悪する。

 このあとはふたたび、アメリカとイスラエルから買い上げた兵器を使用するイランとソ連兵器を使用するイラクの壮絶な死闘がくり広げられた。
 当初、国境からの距離がイラクの首都バクダットに近いために、バクダットは何度もミサイル被害を受けたが、イラクはスカッドミサイルの改良に成功して、報服攻撃をイアランのテヘランに打ち込んだ。そして、イラクがイランに対して、毒ガス兵器を使用したことが、イラン首脳部に大きなショックを与えた。

 毒ガスの使用は、テヘランではなかったが、次にテヘランに打ち込まれれば、首脳部は逃げようがない。これで、イランは敗北宣言を出した。

 これでも、わかるように、今後核爆弾が万が一にも、使用される場合は、かならず、まず、人口密度の少ない場所に打ち込まれて、降伏を打診され、その後、不利な条約をむすばされることになる。

 二年後にイラクはクエートに侵入する。その理由は、「オスマントルコ時代の版図はクエートはイラク領だから」というもので、中國の主張する「清国以来琉球沖縄、満州は中国のもの」という論理とまったく同一である。