ランボー怒りのアフガン | 気になる映画とドラマノート

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「ランボー怒りのアフガン」のキャッチフレーズは、「先に手を出したのはお前だ」で、そう言われて見れば、アメリカの記憶に残る戦争は、ほとんどすべて、相手が先に手を出して、始まったという形をとっている気がしないでもない。

 ただし、アメリカの特殊性は、「先に手を出した」相手が壊滅して、無条件降伏と思えるところまで戦争をやめない。やめる気もない。そして、憲法を作ってあげるところまで、やるということにあるのだが。

 アフガニスタンは、1973年までは王制だったのが、共和制になった米ソ冷戦体制時代以後では、例外的な国である。

 1922年、中央アジアのウズベク、トルクメン、タジクがソ連領に編入された。この時、ソ連軍はこの地域のイスラム寺院を焼き払い、抵抗するイスラム教徒を殺害した。このため、イスラム教徒の多くは、隣国アフガニスタン王国に流入した。

 アフガニスタン国王は、ソ連と宥和政策をとったので、イスラム教徒の国民は、国王を非難するものも、多くいた。

 1928年、各地で反国王の暴動が起きて、国王は退位を余儀なくされた。


 新王もまた、ほどなく、暗殺され、次の王は暗殺された18歳の王の息子が即位して側近の補佐による統治が行われた。

 1953年、王族出身の将軍から首相になった、ダウドはソ連との関係を強めた。


 (いまの韓国パククネ大統領の中国寄りのごとし)

 ダウド首相はソ連と経済援助協定を結んで、空港、自動車道路の整備を進めた。

 アフガンの北方は、パキスタンであり、その頃、パキスタンはアメリカと軍事同盟を結んでいた事もあり、ソ連は、アフガニスタンをソ連の都合のよい地域にしようと望んだ。

 1963年、ソ連はアフガンの将校をソ連に招いて、軍事教育を無償で行った。

 こうしてダウド首相がソ連と協力姿勢を強めるということは、30年前の親ソ政権の時のイスラム教徒の不満と同じ状勢の再現であったから、ダウド首相の後任がアメリカ寄りに揺り戻して、国内は、ソ連派とアメリカが分裂するようになった。(日本の自民党と社会党のごとし)

 10年後、ソ連はダウド氏を支援して、クーデターを起こさせて、アフガニんスタンの王制は廃止される。

 この時、ダウドは最高権力者になり、ソ連製の武器を供与された軍隊を持ったが、なんと、ダウドはソ連の支援をうけつつ、西側と経済協定を次々に結び始めた。(北朝鮮が中国の言うことをきかないようなもの)

 これに反発したソ連は、作家のモハマッド・タラキと人民民主党に支援をシフトして行く。(日本で言えば、大江健三郎のようなもの)

 人民民主党は、ソ連寄りから西側寄りに転じたダウドとの対決姿勢を、ソ連の援助を受けつつ、強め、1997年、首都で10万人規模のデモを起こす。
 (反核デモや反原発デモのようなもの)

 ダウド大統領は、共産主義者を弾圧。

 1978年、アフガン軍隊内部のソ連共鳴者が、ダウド一家全員を射殺。

 (日本で言えば、226事件のようなものが成功した)

 共産主義者で作家のモハメドタラキが大統領となって、完全な親ソ連の共産主義政権が誕生する。

 しかし、これは、アフガン民衆にとって、イスラム教を否定する政権であり、がまんならないものだった。内戦が始まり、国内は、ソ連の支援する共産主義政権と反発するイスラムゲリラの闘争の場となった。

 ゲリラのテロは、アフガン政府に協力したソ連人にもおよんだ。

 1979年9月、ソ連軍部はブレジネフ書記長に、「ソ連兵10万人の投入によって、アフガンを制圧することを提案。アフガン制圧は、ソ連念願の、インドへの道に通ずる、と報告する。
 これは、ロシアにとって、日露戦争以来、日本海を経由して、東南アジアをぬけて、インド洋にぬけて、アジア全域を支配したい悲願のひとつでもあった。
 こうしてアフガンへの軍事介入を検討していた矢先、アフガンでは、作家出身(大江健三郎、小田実のような)のタラキが民族主義の共産主義者のアミンと銃撃戦をして、殺害された。

 民族主義の共産主義者のアミンは、ソ連がアフガンの国旗をソ連風にデザインして押し付けた事に憤慨していた。

 ソ連は、アフガンが反ソのイスラム勢力と反ソの民族共産主義者に分裂したのを見て、計画とおりの10万人規模の軍事介入をして、アミンとイスラム勢力をともに、倒して、親ソ派のカルマルを擁立することを決意する。

 ソ連の参謀本部は、アフガンの山岳ゲリラを掃討することは、非常に困難であることを中央に報告するが、国防大臣ウスチノフは、この反対意見を黙殺。

 ソ連は、まず、アフガン民族共産主義で、ソ連に従わないアミンを殺害する作戦から開始した。その時、ソ連がアフガンの大統領を殺害したことを悟られないために、ソ連のKGBの特殊部隊がアフガンの軍服を着て出動して、アフガン人内部のクーデターでアミン大統領を抹殺したのだ、と見せかけた。

KGB特殊部隊は、アフガン共産主義政権の宮殿警護隊を全員殺害した。


 同時に親ソ派のカルマルに、声明を出させて、アミンはアフガン内戦と死んだので、わたし、カルマルが大統領になると宣言させて、同時に、アフガン政府は、治安維持のために、ソ連に正式に軍事介入を要請した、と発表させる。

 こうして、「侵略」と受け取られない外形をとりつつ、ソ連のアフガン人民への侵略が開始された。

 1980年モスクワオリンピックがボイコットされたのは、これが理由である。

 アフガンゲリラは、最初は、国内の共産主義者と戦っていたのだが、これ以後は、アフガンに入り込んだソ連と戦うようになった。

 なぜアフガンゲリラが頑強に抵抗できたかというと、複雑な地形と、アフガン人一般の人々が狩猟のために、銃器の取り扱いに習熟しているからだった。

 この時、アメリカにしてみれば、ソ連がアフガンを制圧すれば、北はパキスタン、インドと続く地勢であるため、ソ連軍がインド洋に進出するのを阻止しなければならず、そのため、アフガンゲリラに資金と最新兵器を援助した。しかも、ソ連とアメリカが全面対決することは、双方が核兵器を所有しているため、表に出ることは避けた。

 こうして、ソ連軍8万人と親ソ政権のアフガン軍8万人の合計16万人の軍とアメリカに支援されたイスラムゲリラの戦いとなった。

 その後、アフガン政府軍の中から、同じ民族同士が戦うことに矛盾を感じる兵士が続々と脱走して、反ソゲリラに投じていった。

 これで、ソ連は単独で全アフガン人を相手にすることになった。

 このアフガンゲリラ、ムジャヒデンと戦っていたのが、アメリカ人のランボーだった。そして、ランボーは、「先に手を出したのは、奴らだ」と言っていた。