信仰と無信仰の人生選択 | 気になる映画とドラマノート

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信仰と無信仰の人生戦略

 


 

現代には、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、キリスト教、神道をはじめ、その他無数の宗教があって、それぞれに教義がある。

 


 

 基本的には、教祖が示した教えを守れば、実行するのが簡単な南無阿弥陀仏と唱えさせすればいいというものから、イスラム教のラマダン断食のように、だいぶ意識しないと守れないものまで様々なものがあるが、基本的には、強く信じなければいけない。

 


 

 ところで、これらは、信仰者と無信仰者の違いは、「保険をかけているかかけていないか」という側面がある。

 


 

 保険をかけている人も保険をかけない人も、もし、どちらも、結果的に100歳まで生き延びた場合には、保険をかけたほうは、結局、不要だったお金を会社に渡しただけだったのだし、事務手続きをしたり、保険の種類を考えたことはそれ自体、まったく意味のないことだったことになる。

 


 

 保険は、早死にすればするほど、保険の有効性が高まるのだ。

 


 

 神信仰や来世信仰と生きているあいだの戒律も似たところがあって、死んで見なければ、本当のところ、生きているあいだ、祈ったり、断食したり、食べ物を選んだり、わざわざ祈る方向を決めただの、悪いことをしないで、そのために損をしたということが、死んでみたら、まったくそんなことは関係なくて、確かに天国はあったが、自分はイスラム教なのに、ヒンズー教が本当だった、自分の戒律は、まったく意味がなかった、という場合もあれば、なんとエジプトの太陽神が本当の神で、現代人の敬虔な信仰は全部、意味がないという場合もありうる。

 


 

 とにかく、死んでみなければわからないのだ。かといって、では、無信仰ならいいかといえば、キリスト教の信者が日曜日に教会にかよっていたことが、天国への切符だった、としたら、そんなこと、わかるわけないじゃないですか、と言ったって聞き入れられるものじゃない。

 


 

 だから、信じるものは救われると言ったのに、。屁理屈こいて無信仰だったろうか、と言われて、永遠の無に落とされるかもしれない。

 


 

 実は、中国が日本を侵略するか、北朝鮮が日本に核をおとすかというのも、これと似た「知りえないことが確実な将来」なのである。

 


 

 侵略する可能性が高い、と思って、防御を高めるのは、保険をかけた場合、で実際に何年たっても、侵略がなかった場合は、心配しただけ、感情と思考の浪費だったことになる。一方、実際に侵略された場合には、防備していて、よかったとうことになるが、この場合、さらに厄介なことに、保険とちがって、防御したから相手が侵略をやめたのか、元元、侵略するつもりがないから、侵略しなかったのかが判定不可能なので、平和のままだと、防備が必要だったのかどうかが証明できないのだ。

 


 

 これは、仮に、かなりな期間、侵略がなかった場合も同じで、もともと、仮想敵が侵略の意思がなかったから、来なかったのか、現にある武力の効果なのか、判定がつかない。

 


 

 そこで、保険をかけ続けるかやめてしまうか、という選択で、どうせ長生きするから、無駄な保険料を払うのはやめようという判断と同じで、防御をやめる選択枝もある。

 


 

 保険をやめた後に、何年もしないうちに、親がまさかの突然死したしてしまったら、こどもは困るように、戦争の防御も、「防御しているからではなく、もともと防御しなくても結果は変わらないし、むしろ防御していること自体が相手を怒らせているのじゃなかろうか」

 


 

 保険で言えば、保険料金をはらっているから、イライラして生命がちじまるので、払わずに楽しいことに使えば、健康になって、保険料はいらなかった、という場合もある。

 


 

 しかし、これらは、本当にどちらかが正しいという証拠はないとう事は、神があるかないかは、死んでみないとわからないと同じだ。

 


 

 が、意外と神と無信仰についてのとるべき選択枝は結局保険をかけたほうがいい、つまり、もし、宗教がひとつしかない場合は、生存の一大事なのだから、信じる側にかけたほうが確実だ。なぜならば、神がなければ、無信仰も、信仰者も結果は、同じであり、生きているあいだ、心の不安が少ないだけ、有利だ。そして神がいた場合は、無信仰の側は無条件に見捨てられるので、生きているあいだの、不安と死んだ後の地獄のダブルパンチを受けるので、信仰者のほうが有利だ。

 


 

 非武装中立は、保険で言えば、保険をかけずに、死が訪れた場合の家族と同じであり、信仰しなかった場合の、無信仰者の運命と同じなのだ。

 


 

 神があるという立場も、「神は妄想である」という立場も、幾多の理由つけが語られてきたように、非武装中立論、護憲、米軍基地不要論などは、結局はいつになっても、国会で議論が絶えないのは、侵略されてみないと、わからないし、防衛しているからされないのか、防衛しなくても、実は来ないのか、防衛するから、将来危険になるのか、(つまり防衛はやめてにっこり迎えればむしろいいのか。)証明不可能なのだ。

 


 

 それは、セコムをかければ、お金もちだと知られるから、門をあけっぴろげてだれでも入れるようにしておけば、ああここには、何もないんだな、と思ってくれて盗まれることはない、と思う選択なのだが、もちろん、この後者の選択のほぅが愚かなのであり、かならず、防御しないであけっぴろげにしているほうが、あとで後悔するだろうと思われるが、実際、これとて、確かなことはわからないのであり、案外、死ぬまで、ああ、あの人は楽しい家だよ家の中には、財産はたくさんあるけれど、いつでも、持って行って、とドアを開けているものだから、気さくないいやつだということで、結局泥棒にはいられないかもしれない。

 


 

憲法改正や自衛隊の法制整備、集団的自衛権と護憲派の非武装平和論も、結局のところ、どちらも、生命と財産(家族の)を守るという意味では同じで、自分は他人に守っていると知られると、狙われるのが恐いから、守らずに、むしろ、信用して仲良くすれば、きっとお互い幸せにちがいない、という信仰と、現に守るべきもの(子どもの生命)があるから、威嚇して、襲うと面倒なことになると知らせたい、そうしないで子供の生命や残してあげた富が奪われるくらいなら、仲良くならなくたっていい、という信仰論争なのだ。

 


 

 一方は、わきあいあいと楽しく過ごせたかもしれない可能性を留保して、万が一の奪われる悲しみを未然に防いでいることになり、もう一方は、大仰に守るから、喧嘩になるのだから、共同管理しようといえばいいし、よしんば欲しいといえばくれてやると言えばいい、という信仰だ。

 


 

 ただし、共同管理とくれてもいいと言う考えが、こどもの食べるまで与えられるか、、暑さ寒さをがまんさせてでも、与えることができるのかどうあ?本当に最後までなにもかも、寄こせといわれて、渡すことができるのかどうか?もちろん、そこで、最後に、「いや、あの人たちは、そんな卑しい人ではありません」わたしたちとちがって」と言われればそれまでなのだが・・・・。