おばあさんが、「どこにいきやはるのや」から、少しづつ太鼓の音が聞こえてくる。
この太鼓の音は、間断なく、なり続け、時間の経過の連続性を示しているのだが、本当は、撮影自体は、1時間ないし、1日の間隔を置いて、4分割されて、撮影したものを編集しているのだが、この太鼓の音が、一続きの、30秒ほどの連続的な時間に錯覚させている。実際の現実時間ならば、30分はかかる距離にもかかかわrず、音と映像の効果で、現実時間を30分を実際には、2日かけて撮影しても、30秒の出来事に感じるのだ。
本来の分割撮影
実際には、手品の錯覚と同じで、連続して撮影しているわけではなく、「スタートの声とともに、家から出てきたように演じているところからはじめている。
このように、本来は、映画とは、精緻精妙に作られているが、現代の映画はこれが忘れられている場合が多い。
つまり、映像芸術のほんとうの価値はこういうところで、小説になると、「直喩、韓愈、暗喩」の緻密さが存在するかどうかに着目していけばいいことになる。