岩波書店「世界」「追悼 品川正治さん」小森陽一
小森陽一
父は小森良夫 日本共産党員
母は、知人に「赤旗日曜版」を送り続ける日本共産党に強く共感する女性
小森陽一 東大文学部教授 「9条の会」事務局長
小森陽一は品川正治氏について次のように、経歴を説明していれう。
1949年日本損害保険株式会社に入社。全日本損害保険労働組合の東京分会の青年部長として、組合活動の先頭に立ち、1956年からは組合の専従(給料を組合からもらって、一般的な仕事はしない)になった。
「60年日米安保改定闘争」では、全国損害保険労働組合の副委員長として、組合を率いて、日米安保条約に反対した。
1962年に組合専従から、現場に復帰して、その後、「日本損保」の企画部課長、副部長、部長、取締役、常務、副社長、社長になる。
少し変なことに気づかないだろうか。
当時多くの労働組合役員は、資本家を敵視して、純真に同じ労働者の労働条件を改善するためにがんばって、社内昇進など見向きもしない人は大勢いたが、品川正治という人は、労働組合専従から、あっという間に社長にまでなっている。
しかも、おもしろいことに、専従から復帰誤、すぐに課長になっている。
これは、品川正治が一般の社員が地道に営業の苦労をしているところを、ただ、日米安保闘争などの政治闘争の指導者をしていて、いきなり、課長に天下ったことを意味している。
そして、1949年当時、日本の青年のあいだでは、次のような言葉が、まことしやかにさやかれていた。
「おい、出世(昇進)するんじゃないぞ。日本は社会主義になるから、その時、管理職になっている人間は、社会主義政権によって、失脚させられて、労働組合の人間が重用されるのだから」と。
品川正治はちょうど、「労働組合の役員でいたほうが、得かもしれない時代には、労働組合の先頭に立ち、1962年、日米安保条約改定が決定して、どうやら、日本の社会主義革命が起こりそうもなくなると、日本損保の課長になっていることがわかる。
その後、品川正治は、日本損保の会長として、事実上セレブとなったことは無いことにして、「憲法9条を擁護するリベラルな経営者として」日本共産党系の学者知識人、労働組合幹部のご機嫌を取る。
品川正治は病床で岩波書店「世界」編集長の熊谷伸一郎に次のように語ったという。「社会主義」は「民主主義を通じても実現できるのか」体制として持続できるのか、について考えあぐねている、と。
ちなみに、この「社会主義」とは、もちろん、人にやさしい政治、という意味ではない。「社会主義」とは、できる限り多くの産業分野を国有企業にすることによって、よき政府がよき企業をコントロールして、失業と加重労働を増やさない計画型政治経済」のことである。
品川正治は若き日、労働組合員として社会主義革命の先頭に立って、日本の社会主義革命の幹部になることを夢見て、革命が起きそうにないとみるや、家族のため、セレブの道に進んだ。その後、生涯を一貫して、憲法9条に理解を示す反戦的な経営者として、日本共産党、社会党、労働組合のかつて、自分が裏切った仲間を最後の最後まで騙しきり、しまいには、自分自身も青年期のこずるい自分の自己像を忘却した、日本の典型的な転向者だと思う。
品川正治は、日本共産党の党員であった小森良夫、萩原延寿と顔を見合わせて、「われわれは人民戦線そのものじゃないか。小森は共産党員、品川は企業経営者、萩原は学者」と語り合った、と小森陽一は伝えている。