日中戦争への道 | 気になる映画とドラマノート

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 大杉一雄は、「日中戦争への道」で満州事変の直後、関東軍の参謀たちが酒の席で「我々はこの計画に成功したのだから、次には内地に帰ったら、クーデターをやって、政党政治をぶっ壊して、天皇を中心とする国家社会主義の国を建て、資本家三井、三菱のごときをぶったおして、富の平等の分配を行おう。必ずやってみせる。」と言ったが、実際は、具体的な計画をもっておらず、かれらの関心は、中国への侵略に集中していた、と書いている。

大杉一雄はここでまったくかんどころをはずしている。

 この関東軍参謀たちは、あわよくば中国大陸全域から東南アジアまで、西洋列強支配地域を天皇制国家にしようとしたことに問題点があるのではなく、「富の平等の分配を行おう。」というところに、問題があるとみるべきなのだ。

 天皇制の自由主義国家ならば格別問題には、ならない。イスラム主義国家でも、自由主義なら大丈夫。しかし、「富の平等の分配を行おう。」ということこそ、実は天皇制であろうと、共和制であろうと、人類の破滅の道なのである。だから、彼らはまさに「国家社会主義」といっている。

 ロイアルファミリーを排除した共産主義であろうと、ナチスファシズムであろうと、「富の平等の分配を行おう。」という時、なにが起こるか?

 かならず、最高権力である国家による私有財産の取り上げと再配分がなされるわけだが、この時、財産取り上げられた側からは、不満が出る。この不満をおさえて、「富の平等の分配」を実行するためには、不満の表明を押さえ込まなければ実行はできない。そこで、「富の平等の分配を行おう。」という政権は、労働者の党であれ、天皇大権を代行した党であれ、オウム真理教の真理を体現した党であれ、一等独裁にならざるをえない。また、言論の自由も否定せざるをえない。(公明党が「富の完全平等」を追求しないのなら、ある程度大丈夫)

 なぜかといえば、私有財産の否定は、職業選択の自由に連動するのであり、個人の努力と成果を完全否定しなければ成り立たないからだ。

 これは、実際には程度問題で、資本主義でも、所得税の累進課税を取れば、個人の工夫と努力は反映されない部分はでてくるが、個人はひとりで才能を伸ばせたわけではなく、社会に生きることによって、才能が形成されたと言う意味で多少の累進課税が肯定されている。

 しかし、社会主義や共産主義、が「結果平等」を最高価値とする時、かならず、どのような職業選択も許されず、ただ、国家の計画にもとづいて、個人は社会の完全平等の目的に奉仕するために、道具となる。

 それは、極端になれば、性的な満足までもが結果平等を志向し、ブサイクな男女の美形な男女への革命的打倒がなされる。すなわち、統一原理教会の、結婚相手は教組が決めるということに具体的な兆候が現れている。

 「人はその人間の責任に帰することのできない要素によって、差別待遇を受けないという理念を結果平等であらゆる分野に貫徹すると、個人は権力を最高権力に主権を譲渡した上で、美醜健康美の劣悪かんけいなしに、結婚相手を選んでもらうこともよしとすることになる。

 平等原理という絶対信仰をもてば、美女が野獣に、生涯そいとげることに恍惚を感じ、美男子が得体の知れない性格ブスと結婚しなさいといわれても、なんとも思わない。それは、人間皆が幸福でなければ、個人の幸福はない、という理念の実現に寄与する正しい行為だからだ。