武士道は現代に生きうるか | 気になる映画とドラマノート

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武士の「恥を嫌う意識」は、ふんどしをいつも清潔にする習慣、つねに金銭を携帯し、しかし遣わず、かならず緊急の場合に備える習慣を持っていた。これはつねに油断おこたるなく、他人を助けることはあっても、他人に頼らず、自分一身は自分で始末をつける武士の覚悟を意味した。これが、独立不羈の内実だった。これが、朝鮮、中国の大夫を越える日本人の道義礼節の根本であり、朝鮮、中国の儒者には、まったくおもいもよらない日本人の強靭な精神力の秘密だったと言える。


 新田次郎の生家は、下級武士であり、そこには使われない「切腹」の部屋があった。武士にあるまじき見苦しきことをしたとき、切腹して果てる覚悟をしていた。


 「弱い者がいじめられていたら、身を挺して、助けよ。」


 「男が女に手を出してはならぬ。」ならぬものはならぬ。」


 「火事場からは、けっして、どんなものも持ってきてはならない。恥ずかしい振る舞いである。」


 「大勢で一人を折檻してはならぬ。相手が武器をもたなならば、こちらももってはならぬ。守れないなら、死ぬが良い。」それが武家の教えだった。


 これらは、厳しく、教えねばならず、教える側も、身を正すのは当たり前のことである。「積み木くずし」の親は、父は外で愛人と会い、母はさびしくて家で泥酔しながら、こどもには厳格に命令していたと、親本人が書いている。


 この美徳はまことに尊いのであるが、柔道、剣道などの指導とともに、教えるよりほかに教える場は現実にはないのではないだろうか。そうした場でさえも、強く教えがたい雰囲気が現代にはあるのが、現実であろう。


 武士の美徳にはまだ、以下のようなものがあげられる。

 「やせがまん」の美徳。あれがほしい、これがほしいとさわがない。

 「武士のなさけ」 苛烈酷薄に、敗者を侮辱すべきではない。

 行き過ぎた制裁には、躊躇せずに、「もうそれくらいでいいじゃないか」と声をかけよ。

 押し黙るな。


 「川に落ちた犬はさらに叩け」というのは、中国人と朝鮮人に知られた考えだが、日本人に古来こういう発想はない、ところが、現在、韓国人を批判するネトウヨこそ、こういう発想で、「生活保護者やホームレス」を「自己責任」をタテに声高に言い立てる者が多くなってきた。実は、韓国人自身が、韓国は現に障害者支援施設や貧困者対策が、日本に比べて、貧しく、見習わなくては、と韓国のニュースで言っていることがある。


 一知半解の日本の保守青年には、最近、韓国を批判するそばから、日本のセーフネットを軽視して、自己責任とばかりに、結果、韓国や中国のように苛烈酷薄な社会を肯定する傾向がでてきた。


 「武士に二言なし」安易に大言壮語することなく、言葉に責任を持て、ともかく、これらは死ぬ覚悟でやるのだから、賄賂、詐欺など、論外なのであった。


 乃木大将はステッセル婦人にポケットマネーを送り続けたが、天皇から下賜された連隊旗を奪われる恥をかき、旅順戦では1万6千の部下を失った。息子は戦死した。


 いたたまれない老後を生きたのであろう、乃木は明治天皇崩御とともに、切腹して果てる。


 夏目漱石の言う「明治の精神」とは、武士道の残影だったのかもしれない。


「武士の情け」自分には、厳しく、人にはやさしくしなければ、おそらく、死ぬ覚悟ばかりで生きる人間の道徳は研ぎ澄まされるあまりに、ぎすぎすしたものになる。


 藤原正彦の友人のアメリカ人女性は、あるとき、藤原にこういったという。


 「日本にいると、穏やかな心で居られる。アメリカのような訴訟と競争に満ちた社会はでは、絶対に弱音を吐くことが許されない」と。藤原氏は言われたという。この言葉は小泉改革だとか、小泉選挙で刺客が肯定される前のことであり、「自己責任」という言葉が日本人に定着する前の話」である。現在日本では、自分にやさしく、他人に厳しい発想はますます増えてついに定着したのではないだろうか。


 もし、現代人が本当に、それぞれに、黙々と、懸命に生きているのだと、信じられるなら、それを信じる人間が、「おれおれ詐欺」を「懸命に生きて、時に神社に手を合わせ、ぜいたくもしない老人をだませようか。姑息な儲けふるまいをする恥ずかしいふるまいができようか。