マンデヴィルは、蜂の寓話という本の最初に、まず、9年前に発表した「ブンブンさわぐ蜂の巣」をおいて、そのあとに、序文を書いている。
シェイクスピアは、人間は歩く影ぼうしだとか、美人も結局は骸骨だとか、言ったことがあったという気もするし、わたしは、人間は脳の器があるいているようなものだ、と思ったことがあるが、マンデヴィルはもっとうまいと思えることを言っている。
人間とは、見て明らかなのは、皮膚・筋肉・骨格の集合体であるが、かんじんなのは、「さまざまな情念の集合体だということで、この情念は、その人間の意志とは無関係に、かわるがわるその人間を支配する。
これは、「腹が減った」「のどがかわいたような気がする」「水よりも、ジュースが飲みたい」「100円のアイスよりも、360円のアイスのほうがおいしそうだ」という情念も含む。という情念も含む。
マンデヴィルの生きた当時、2012年のいまよりも、キリスト教は深く信じられていたこともあったから、「だれもが恥ずべきと主張するこの情念」と彼はここでいっている。
現代の準先進国から先進国まで、テレビCMからグルメ番組まで、明らかに、食道楽、着道楽、旅の安楽を推奨し、憧れを増長しているので、「だれもが恥ずべき」というのは、現代ではあてはまらない。ただし、原発問題で、「質素な暮らしに戻るべきだ」という意見を言う人々、作家、文化人がいるのも、たしかではあるが。
マンデヴィルは、序文でいささかわかりにくかったかもしれない「ブンブンうなる蜂の巣」のテーマは、「ぜいたくとか、いいものを着たい食べたい、安楽にクーラーで涼みたい。たまには旅行をしてすがすがしい景色を見たいという情念(動物はこんなこいいものを着たい、旅行したいなんて考えない)こそ、社会の繁栄の元だと
言いたいのだという。(繁栄がなければどうなるか。失業による家庭内のいざこざ、ホームレスや犯罪が多くなる)
そして、たしかに、この考えは、逆説的表現が多くなりがちなので、注釈をつけよう、と思うというのである。
親鸞が善人なお持て往生す、いわんや悪人をや、と言ったところ、実際に、それならば、率先して悪いことをしたほうがよさそうだ、と息子が言い始めて、親鸞が、なんと浅薄な誤解だと怒ったという事実がある。
マンデヴィルの考えも、そうした、真意の曲解されやすい面がある。
「さまざまな情念の刺激をうけて、揺れ動く人間は、どのようにして、美徳と悪徳の区別をして生きるようになりうるか」とこう、マンデヴィルは言う。これが序文である。