赤道の男 韓国ドラマの文句なしの問題作 | 気になる映画とドラマノート

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 数年前に「太陽の女」を見た時、まったく救いのない内容に、寿命の縮まるような不快感を覚えた記憶がある。

 しかし、この「赤道の男」は、作者が「真実」「太陽の女」と、人間の、他者をふみにじり、傷つける業のようなものをリアリティを持って、描いてきたところのテーマをもう一度つきつめつつも、ついに希望をどこに見出すのか、を描いて見せなければならないと、決意したのだと思われる。

 わたしには、この作品を見て、はじめて、韓国は戦後の復興期の混乱のなかを、、国家的には、日本を憎む教育を受け、個人の家庭においては、それぞれに、親の離婚、失業、不倫、などにまきこまれながら、(シンデレラのお姉さんに見るように)人間不信に苦しむという宿命を負ってきたことを思う。

 これは、一方では、従軍慰安婦問題などの限りない追及という不毛の行動を生んだが、もう一方では、まさに韓国人こそが、現代世界で人間の憎悪からの自己克服を探求する旗手になりうるのではないか、とおもわせてくれた。

 戦後すぐの頃、日本映画、、イタリア映画は空前の人間洞察を提示してみせた。ところが、高度経済成長とともに、イタリアも、日本も、人間に対する省察をまさに反比例的に失わせていった。

 韓国社会は、急激な経済成長の過程で、現在10万人を超える女性が外国に行き、風俗で暮らしているとは、韓国自身の報道機関が言っており、国内の性犯罪も多い。また、国内の経済格差も、日本以上に大きい。これは社会の不安定要因になって、友情や男女間の愛情に傷をつけ、親子間の倫理的な憎しみの噴出の元になりうる。ところが、これらすべては、日本の嫌韓流の単純な頭からすれば、韓国を侮蔑していい理由になるだろうが、わたしには、そうした苦しみは、結局そこから深く深く人間存在を考え抜く契機にもなりうるものだ、と思う。

 そのかすかな兆候が「赤道の男」だ。


つけくわえていうならば、日本とイタリアの戦後は映画の歴史的高揚の時期であると同時に、新興宗教の勃興期であり、政治と社会の混乱の季節であり、人々がもっとも倫理的に苦悩した時代だったといえる。

 たぶん、韓国はいま、そのような時代の渦中なのである。