韓国ドラマGIANT9話 | 気になる映画とドラマノート

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 GIANTは、たぶん(まちがいなく)アメリカ映画のジェームスディーン、エリザベスティラー、ロックハドスンの「GIANT」に由来するのだろう。少なくとも、アメリカ映画の GIANTがなければこのドラマの題名はこうはつけられなかった。しかし、GIANTという名前がつけられなくても、この作品はなりたったろう。

 アメリカ映画の「GIANT」は、テキサスの石油王の二つの家族の物語で、メキシコ人との人種問題などをまじえながらテキサス発展史とともに、富豪ー巨人として描かれ、富豪になった巨人も、失恋という心の痛みをづっと抱えていたというように描かれている。

 韓国ドラマのほうの「GIANT」はソウルの江南地域の発展と孤児ガンモが富豪になるまでを描いている。

 韓国ドラマでは、「真実」「セレブの誕生」「栄光のジェイン」のように、大金持ちの経営者が若い時に本来の経営者を陥れたり、罪のない人を殺して栄華を築いて、それを「いまの時点」に暴かれるという設定が多い。

 実はこの設定、日本の落語の古典の定番でもある。(「すずめ」そして、水上勉の「飢餓海峡」松本清張の「

 このドラマは「あしたのジョー」や「タイガーマスク」が感動的な漫画であったように、荒唐無稽な漫画の実写のように、ドラマチックで感動的な場面もあるが、そんな馬鹿な、というおかしな場面が無数にある。

 ガンモの父親は殺されるが、軍の拳銃で撃たれたというのに、まったく警察が軍を疑ったという場面がない。

 日本のドラマはそうではなくて、韓国ドラマではそうだ、という特徴的なのは、「親の世代は非常に道徳的に悪いことをして財をなし、こどもの世代が親の倫理的堕落を克服するというように描かれている(その時直系の子も引き継いで悪く、立派な青年に親子もろとも打ち負かされる)ということだ。これはアメリカ映画にもそうはない、とてもおかしな心理的固着だ。あまりに繰りかえされると、おかしなことになる。

 そもそも、なぜ韓国ドラマにこうも財閥、大富豪が登場し、日本には富豪はいるにもかかわらず登場しないかというと、たぶん日本人は「足るを知る」と言えるだけの中間層の満足感が「富豪やエリートの生活を見たいと渇望しない」からだ。

 韓国の場合は、中間層の満足感が相対的に低いために、上層階級に対する嫉妬と憧れの意識が強い。嫉妬が、ドラマでセレブの親の世代の道徳的悪行の指弾を見て納得することにつながり、一方上流への憧れが、彼らセレブの生活、衣服、食事、豪邸を見て、うっとりとあこがれる意識に対応している。これは国の発展をうれしく思う意識にもつながる。

 こういう意識はしかし多かれ少なかれ、アメリカや日本の庶民が銀幕の世界にあこがれていた時代の意識に共通している。