「萬江マンガン」「名家の娘ソヒ」のような時代劇では明らかに、「親の悔しさ。恨みを晴らすこと」を生涯の中心課題になっている人物が主人公、副主人公としてでてくるし、現代モノの「栄光のジェイン」でも、男主人公のヨンガンの父親は、少年のヨンガンに「偉くなれよ、お父さんみたいになるな」という。ここで、いかに社会的地位の低い立場は、現実にみじめな局面になりうるかが示される。
もうひとつ、示し合わせたり真似したりしているわけでもないのに、何度でも反復されるモチーフがある。子どものした不道徳な行為の責任は母親、または父親の側にあるというものだ。これは、「妻の誘惑」では、「妻の悪い行い(借金)は、夫の自分が悪い」というように表現される。
ただし、これは、韓国人にとって常識だというわけではない。もちろん、子どもの悪事を、自分が悪い、というのは、立派な親であり、子どもは感動する、というように考えられている。夫婦不和の場合でもそうだ。相手が悪いのではなく、自分が悪いから、相手が不祥事を起こした、というのは、立派な人物だと考えられている。
日本のドラマでは、このような場面をあのドラマでもこのドラマでも繰り返すことはありえない。
現実に、子どもが悪さをして、「母さんが悪いんだよ」ということは、あまりにも、暗いし、伸びやかな親子にふさわしくない。まさに、一家心中ぎりぎりの観念だ。
日本人が「日本人の国民性」として、いま私が言い当てられるのは、「人に迷惑をかけるな」ということくらいしかない。しかし、韓国では、映画、ドラマを通して確実に反復されるモチーフをかなりいくつも抽出することができる。
「自尊心を持て」「自尊心が邪魔するのか」「「親のみじめな失敗を晴らしてほしい(晴らしてあげたい)」「不道徳な行為をした親を、どんな親でも親は親だから優しくしたいという矛盾の苦悩」これらが、手を変え品を変え繰り返される。
これは、無意識に同じになっている場合もあれば、意識的にドラマに取り入れている作家もいるようだ。
私が気になるのは、日本人は自分が日本人だから気がつかないだけで、外国人が日本のドラマを見れば繰り返している心情が実はあるのかないのか、ということだ。
(東映の任侠映画は典型的に同一の心情と行動様式を繰り返したのは想像できるが、韓国のように大手三局のドラマに共通する心情は日本にも、果たしてあるのかないのか。
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