以前に、薯童謡ソドンヨと善徳女王は、物語の祖型が、「貴種流離譚」(王族の血筋などの、子供が、ある事情から、自分が何者かわからない状態に置かれて、超人的な才能を発揮しつつ困難を克服しながら、世界と人間の深淵を会得しながら成長していき、最後に大望を成し遂げる)
にぴったりと一致していると書いたことがある。
この「シンデレラのお姉さん」も、もうひとつの別な物語の祖型に一致している。
「親の世代からひどい仕打ちを受け、精神的にひどいダメージを受けるが、生来のなみはずれた才能を開花させる『と同時に、親の世代の考え方を全否定し、憎悪するが、それは、自分自身の出身の否定であるために、激しい自己嫌悪を呼び、苦悩する。並行して、理解者である恋人が現われるが、誤解から長期にわたって、理解しあえない。やがて、大きな苦悩を経て、親への愛と自己肯定に到達する。
ねっ、「ファンジニ」と「シンデレラのお姉さん」このパターンにはまってるでしょ。
私がこの作品に魅了されたのは、純粋な人間が、傷ついた時、相手を責めて、責めたことがさらに自分を責めるという、現代の青年期にとてもリアルな問題を抱えた人間が、どう克服するか、ということだった。
もう一つは、庶民的で無学で男運に恵まれず、こずるかったり、必死だったり、しかし、子どもへの愛情は人一倍ありながらも、子どもの気持ちがつかめずに背かれる母親が、どう変わっていくことができるのか、とっくりと、作者の考えを聞いて見たかった。
ガンスクは、居候先の女友達がホステスのようなことをして、生計を立てていて、その娘(小さい子ども)が泣くのを見て、お母さんは生活のためにやっているのだから、泣かないの、と諭す。
その子どもが、母親が相手をしている男が、同級生の父親で、そのことからいじめられて惨めだということがわかって、子どもは子どもなりに、おとなの思いこみ以上に、全身で悲しみに耐えていること、そのことをわかってやるべきなんだとガンスクは思う。
この世界は、母子家庭の女性がこどもをあずけて、繁華街のクラブや場末の何とか横丁のスナックやキャバレーや、風俗に行かなくてもよい時代が来るまでは良い世界ではないのだ、と昔、妄想したことがある。この場面はいまでも、IMFの通貨危機や失業率の高い韓国でも日本でもある人にとってはリアルな場面に違いない。
そして、次にジュンスが行方不明になり、ガンスクがデソン家に心配して行くと、
ウンジョは相変わらず、
「ヒョソンは味覚がないの。お母さんのせいよ。どうして戻ってきたの」と言う。
このウンジョのセリフは、私たちは、もう何度もウンジョがヒョソンに、「あなたはどうして、もっとやさしい言葉が言えないの、どうして人の気持ちがわからないの」と何度も言われ、事実、ジュンスにも鬼ばばと言われているのを見ているので、
ウンジョが主人公であっても、その言い方は、ちょっとお母さんに残酷だろう、そんなふうに責めて解決するものでもあるまい、という感想を持って見る。
そしてつぎのシーンでは、ヒョソンが、もしかすると彼女は母親ガンスクと深く解りあって、抱きあって、二人で大泣きすることを望んでいたかもしれないが、みごとに肩すかしを食らう。
ガンスクは、腹を痛めて産んだウンジョとジュンスが病気で死にそうになったら、はらわたがちぎれそうになる、でも、あんたなら、胸が裂かれるように痛い、という。
この場面を演じた時、イ・ミンスクは、大変な役をやったなあと思ったのではないだろうか。
最初のガンスクの愚かさ、親としてこどもに見せてしまった汚さは確定しているのだから、ウンジョとヒョソンのそれぞれが、欠陥人間だということが再確認される。そして、足りないところのある人間同士が、もう傷つけあうことはやめて、家族としてしっかり助けあっていかねばならないことが、少し前の、ジュンスが白昼夢で、父親デソンに、皆を守るんだぞ、と言われて、ジュンスがそうか、すべてがわかった、というように笑うところに、示唆されている。
ジョンウは青年時代の一時期、好きだったお姉ちゃんがどんなに深い悲しみに耐えて生きたかを、胸に秘めて、歩んで行くことになる。
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