






そもそもコメディは作るのが難しい、というのがこの作品を見てよくわかった。
たとえばカン・ジファン、ソン・ユリの「快刀ホンギルドン」でも、チャン・グンソク、パク・シネの「美男ですね」にしても、前半から中盤にかけては、ギャグが満載で、ものすごい「コメディドラマ」かと思いきや、後半は悲劇的に盛り上がる、という側面がある。「シティーホール」「セレブの誕生」にしてもそうだ。最初このような、ギャグの横溢する構造の作品が悲劇になっていくのを見ていて、作り方がおかしいのではないか、と思っていたのだが、今回イ・スギョンの「国家が呼ぶ」の最終話が、やはりまじめな要素が入ってくる様子を注視して、どういうことなのか、を考えてみると、これは、もしかするとやむをえないことなのかもしれないと感じた。問題は、「快刀ホンギルドン」のように悲しみを最大限にするか、上記各作品のように、それぞれ悲しみの度合いをチューニングするように調節することなのかもしれない。これが行き過ぎると、水と油をむりやり混ぜたような無理感が出てくる。
では、なぜコメディには、こういうリスクがつきまとうのかというと、「ルーシー・ショー」「「奥様は魔女」「「アグリー・ベティ」のように、思い切って長期連続企画にしないと、16話から20話くらいでは、ラストに「こうなりました」という落ちがつけられないからではないかと思われる。そこが、16話から20話のコメディが純粋にコメディだけの要素で作りがたい理由ではないだろうか。たぶん、どの作者も、構想の始めでは、最後は悲劇で、とか、最後はまじめに、とは考えていないのではないような気がする。しかし、物語の、「こうしてこうなりました」の「こうなりました」を構想するにつれて、悲しい局面、まじめな局面をいれなければ「最終話」としてしまりがつかなくなるといえるだろう。
こう考えると、「奥様は魔女」や「かわいい魔女ジニー」などの典型的なコメディドラマが最終話ではどう終わるのか、知りたいような気がしてきた。
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