それは世界大会。2005年の第2回、2009年の第3回大会に出場した。
第1回世界大会は、減量せずに重量級予選での敗退。
4年後、満を持しての第2回世界大会へ
ところが平坦な道のりではなかった。
最終代表決定戦に出場することとなったのだが、小野(吉祥寺)、笹沢(早稲田)の二人が既に代表として発表される。
彼は気分を害し、総本部に泊まらずに実家に帰った。
その理由は…
直近の大会で入賞もしてない他の4選手と同じレベルとされることに耐えられなかったのです。
そのまま大阪に帰ろうかと思ったのだが、この男は一晩寝て考え直した。
「全員ブチのめしてやる」
固く心に決め、しれっと試合会場に紛れこんだのだったが、試合組合せ表に名前は無く、初代塾長に尋ねたところ…
これは某先輩が何か言ってくれたらしい?のだったが、琵琶湖気狂いの心に残る出来事となる。
そして、運命の刻
最大の焦点は、間違いなく現れる準決勝ケリモフ・シャンハル(第2回優勝者)をどうするか?
初戦はリトアニア支部のアリ・ラタエフ。ここは問題なしと誰もが思っていたが、後ろ回し蹴りが直撃、まさかの一本負けとなってしまう。
第2回大会で惨敗し屈辱の墓標を刻みました。
それからの4年間は第3回大会でこの悔しさを晴らすことにのみ存在したといっても過言ではありません。
(最終予選2回戦負け、これも2005年の自分と同じくのシンクロニシティ)

世界大会を諦めた彼は、週末は釣り遠征を満喫していた。更に九州本部とも揉めてしまい、「このまま退会か」との思いが過る日々に電話がかかってきた。
酒○先輩から 「合宿なんで行かんのや~」って世界大会強化合宿の度に連絡が来てました。
夏に実家に帰ったついでについに合宿に行くことにしました。平日はキックジム、パラエストラ博多に通って練習はしていたので、嫌がらせで世界大会代表メンバーをブチのめしてやろうと思っての参加です。しか
し、参加すると稽古が楽しくなり、以後の合宿には全て参加、行われた最終選考で勝選手に一本勝ちし、代表になれました。色々と複雑な気持ちでの代表獲得になりましたが、4年前の借りを返すチャンスであり、出陣させて頂くことになりました。
代表戦に負けても、補欠で出られるだろうと思っていましたが、今回は補欠で出る気は無く、補欠で選ばれても断るつもりで勝選手戦に臨みました。
第3回大会で会場に入場する際、感極まって泣きそうになり、誤魔化すために左胸をバシバシ叩きながたら入場しましたが、叩きすぎて胸筋を痛めちゃいました。
【第3回世界大会】
服部宏明VSケリモフ・シャンハル
足掛け9年に渡った闘いは終わった。
【身長】
174㎝
【体重】
79kg
【入門】
1994年5月
【血液型】
B型
【得意技】
Jetアッパー
正拳廻し打ち
【趣味】
娘と遊ぶ
ルアーいじり
【思い出の一曲】
Avalon log off:第1回世界大会を生で見たことで2009年までの自分の道が決まりました。
会場で流れていたこの音楽は素晴らしい試合内容と共に強い衝撃として残っております。
CAT on the Street/相川七瀬:1997北斗旗無差別、北斗旗デビュー大会で一回戦が稲垣拓一先輩。
代々木駅から体育館まで、震えながら歩いた時に聞いていた曲です。今聞いてもその時の震えが蘇る。
結果は、投げキメ含め有効4取られましたが、パンチで効果1を取れました。
【好きな言葉】
恐るべしやで
【大道塾を始めた動機】
フルコン空手(士道館)を高校にやってましたが、顔面に対応できないと護身的に不安があった。そして武道がよかったので。
当時格通を熟読しており、大道塾もよく登場していて印象もよかったため。
【現在の稽古】
ジョギング
【未来の夢】
釣りに行きたい
相変わらず牧野先輩(府中支部長)のダイジェスト動画は貴重です。
【体力別を振り返って】
努力が足りず優勝できませんでした。
もともと北斗旗無差別に全集中だったのですが、世界大会開催により徐々に体力別にシフトしていきました。第2回世界大会後は体力別しか出ませんでした。
自分は、2017年からずっと稽古行ってなかったので・・・
平日は仕事が忙しかったのですが、土日は稽古がなく、行けないまま終わりましたね。
ただ○にも魅力を感じてれば辞めなかったと思いますが、魅力なかったのでしょう。支部も多く、色々な支部に行けると楽しみにしていたのですが…

世界大会まで、大道塾での稽古は関西本部での2回のみでしたが、自分としてはキックジム、パラエストラでも大道塾生としてプライドを持って練習していました。「俺が大道塾」という思いから、ヘタな練習はできないし、周りから認められるような内容、態度でやっていたつもりです。転勤した各地で色々なところに出稽古等行きましたが、自分が大道塾生という意識、プライドは忘れたことはないです。
世界大会が終わり、何も悔いがないわけではなかったものの「ああしていれば」そんなIfは残っていた。
稽古に行っていなかったのに、退会したのは実に5年後の2022年2月…やはりどこかに躊躇いはあったのだろう。気狂い故の葛藤ではあったが、それも今は…
「すべて過ぎ去ったこと」
数える程しか会っていないのに、最後の最後に宮城県で会えたのは奇跡でした。
今更振り返って、もし服部選手と試合出来ていたら?
無茶苦茶噛み合った面白いものになっていたと思います。実現の可能性は充分あったのに、何故かいつも全然違うブロックだった😅
またいつか会いましょう。🍣
あの日行けなかったやまなか家で









