https://ameblo.jp/kudo-shinagawa/entry-12769800696.html 




1992年、THE WARS 7・7 後楽園ホール

素手の格闘空手がグローブ戦を行った。このビデオを買ったことで、その後すべての道が決まった。


これは相手の土俵であり、本道は北斗旗空手道選手権大会、そこには柔道、ノンコンタクト、フルコンで感じた矛盾をすべて打ち消す戦いがあった。

「顔面パンチに投げもグランドもあるのか…」

通いの道場生などまったく眼中に無く、やるなら内弟子しか無かった。品川から串焼き屋のあった目黒区に住んでいたが、マスターに辞めることを伝える。



https://s.tabelog.com/tokyo/A1317/A131702/13120311/ 

⬆場所も名前も一致、おそらく今は焼肉屋のここがマスターの店と思われる。



正直、心苦しかった。21歳の若造に新店舗店長というポジションを与えてくださったのに、僅かな期間で辞めるなどとは…でも、仕方なかった。RINGSで追ったものでなく、大道塾にこそ本物の戦いがあると信じたから…それを決定付けた人は市原海樹先輩だった。


WARS 7・7で、ロシアのキックボクサーを一発のカウンターで倒したのだが、これで初めて知った人ではなかった。

1992年3月26日、正道会館主催

格闘技オリンピック、前座とも言えるポジションに出場していたのが市原先輩




打撃素人とはいえ、RINGSオランダの巨漢ピーター・スミットにローキック連発、最後は戦意喪失させていた。この時点でもかなり興味を持ったのだが、道着着用だったことも大きかった。

相手のルールで行われた死闘となったプロ修斗トップ選手との対抗戦WARS4で、森直樹先輩(現横須賀支部長)が同じく道着着用だった。
当然、レギュレーションでは禁止なので、修斗非公式戦となったが、グランドには一切付き合わずトップ選手をボコボコの流血戦…これが強い印象となっていた為、道着を認めてくれなかったパンクラスには出なかった。そして14年後、道着着用でミャンマーラウェイをやることが出来た。この2年前半分冗談で言っていた
「やらなかったら逃げたと思ってください」
これは市原先輩のセリフのパクリだったが、言ってしまったことで、実際オファーが来てみたら逃げられなくなっていた。


総合格闘技&K−1前夜、そんな激熱だった翌年
THE WARS 93
メインイベントで、4つのタイトルを取ったオランダのキックボクシングクルーザー級王者、ヤン・ロムルダーとのメインイベント。
後楽園ホールの誰もが負けたと思っていたであろう最終5ラウンド奇跡的な大逆転勝利。格闘技雑誌には

「歓声が凄すぎて、逆に静かになった様に感じた。」

なんて書かれてたほど…現場にいた人達に話を聞いたが、やはりとんでもない盛り上がりだったらしい。




この20歳当時は、リングスの影響もあって「雑誌に出てる選手は専業で食べてる人達」そんな勘違いをしていたのだが、正道会館のトップ佐竹雅昭選手、リングスに出ていた角田信朗選手、SAW木村浩一郎選手など、みんな指導員としてのサラリーマン。そして市原先輩はなんとフリーターだった。

後に考えてみたら当たり前のことだけど、これを格闘技通信で知った時は衝撃で、それも含めて大道塾に更に惹かれる理由となっていた。

社会体育にして武道という理念、実戦への拘り、そしてプロ相手でも勝ってみせる。
「これが探していたもの」直感的に確信することになる。
RIZIN、UFCなどの興行を完全否定出来ないのはここ、和多志もメディアが取り上げているような団体でなければ知らないままだったから…その入口として、本質的に否定している興行格闘技と同じ手法で大きくなった組織が大道塾、既にここから矛盾があって、それが現在、あの時とはまったく別次元で局地的に再燃している。


岩﨑大河は歴史を理解して、今どきあり得ない自己の空道哲学と覚悟を持って闘っている。
色々批判はあるのかも知れないが、初めてこのぐらいの年齢の令和選手に共感できる部分を見つけた。
確たる団体への矜持あるならば、その若さをぶつければ良い。老害の意見など必要以上に聞く必要もない
「今現在の最強」
それには誰も何も言うことは出来ない。反論あれば倒すしかない…それが、この世界の真理。そしてここでもそれが常に当たり前だったのだから…

ただ、和多志が19歳の時に圧倒された興行世界、それは恐ろしい魔力を伴ったカオスでもある。



 

 

大鳴戸親方はまだ八百長が絶対的タブーだった時代にそこへ踏み込み、不可解な最期を遂げた。


 

 

FMWの荒井昌一社長も興行に飲み込まれた。

大仁田厚という人は衆議院議員にまでなったが、元新日本プロレス佐々木健介と同じく

としか思わない。世間は二人を祭り上げたが、表しか見ていない人間の票数なんて意味はない。
だが、資本主義社会ではそれがすべて…

日本がMMA世界最強を決める国

栄華を極めたPRIDEの森下直人社長も亡くなった。

その闇も無かったように風化し、歴史は繰り返す。




1993年11月12日、第一回UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)1がコロラド州デンバーで開催されることになり、格闘技界はその話題で持ちきりとなっていた。


バンテージ無しのまったくの素手もOKで、噛みつき、目潰し以外は全て有り、あまりに危険な大会


https://www.weblio.jp/content/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%B3%95 

これは本当に初期の頃だけ、この試合はアメリカでも非難の嵐…後にノーホールズバード禁止法なるものまで制定され、現行のグローブ着用の総合ルールに変更となる。




「出なかったら逃げたと思ってください。」

トップ選手が個人の意見で動けないだろう。そして、何より「言ってるだけでやらない」そんな風に思っていた。世間はオオカミ青年&中年&老人ばかりだったから…

だが、たった4ヶ月後、先輩はあのオクタゴンへ足を踏み入れていた。

1994年3月11日、コロラド州デンバーのマンモス・ガーデンで開催されたUFC2

(この時、第2回だったが、現在は282回!)

抽選で不可解な部分もあったらしいが、一回戦でホイス・グレイシーとの対戦が決定。近年の日本人武道家で初めて、しかも大道塾が、木村政彦以来となるグレイシー柔術と対峙した。


「一年間準備・研究していれば絶対に勝てた。」そんなことを感じたものの、その時グレイシーが戦ってくれるかも分からない、ホイスが死んでいるかも知れないのだから、やはりあの時やるべき、やる運命だったのだと思った。


何より有言実行で、負けてごちゃごちゃ言い訳しない姿に感動。この直後極真を退会し、大道塾へ入門を決める。興行格闘技の汚い部分はもううんざり、最早何の迷いも無かった。



寮生の三年間、先輩は現場から離れていたので、直接接する機会はまったくのゼロ、ところが先輩が大道塾を辞める前に三ヶ月だけ火曜日の指導をすることになり、直接先輩の指導を受けることができた。

(これで最後の心境だったのだと思う)

他のクラスもかなり緊迫していたが、サポーター着ける時など、合間に多少の会話はしていた。ところが先輩の指導中はとにかく誰も喋らない。正確には喋れない…(笑)。


「極めはフリではない、本気の攻撃だ。」

あの時代でも、ここまで極めを本気で打ってる人は居なかったと思う。今なら即注意だが、当時はちょいちょい当たっていた。これは完全に影響を受けていたので、常に全力でやっていた。

2002年最初の関東地区重量級予選、志田戦で投げの後、渾身の力で踏み込んでの極めでヒザを痛めたのだが、これがこの日最大のダメージだった。



バイトを紹介していただいたのもあり、短期間ながらかなりお話しすることができた。

寮への階段でのすれ違い際、先輩がいきなり殴る動作をしてきて

「隙があるな(笑)」

なんてことや、チャンコ番担当の日は

「今日は清水鍋か」

と、その日の鍋のレシピを聞いてきてくれるようになり、仕事帰り晩酌していた。先輩は本来入ってないので、食べられると元々足りないのが、更に足りなくなるという…(笑)。

先輩に対しては完全に「一空手ファン目線」に戻っていた。ミャンマーでラウェイ、デンバーでノールールUFC、大道塾は実戦想定の団体…そんな概念はこの人の実際の行動によって、そして、こうした経験から更に強く刻み込まれる。




1998年4月15日(水)作成ノートより

「組手では先輩後輩は関係ない」
「組手をガンガンやれ」


あの頃は「殺しにきてんのか?」みたいな人が多かったので、やらなきゃ一方的にやられる。だから、組手ではまったく先輩とか関係なし。ある寮生同士は、毎回個人的遺恨をぶつけ合っていた(笑)。それでも終われば笑ってメシを食い飲める本物の関係。

「スーパーセーフは宇宙服、他の星で戦っていて背中ついたら電流が流れるぐらいの気持ちで…」

これは格闘空手の本質であり、特に印象深い、こういう単純な話、路上で複数相手に背中ついたら死あるのみ、北斗旗はMMAではない。

「極真やってたんだろ、たまには基本反復しろ」

極真といえば、先輩の稽古で逆基本というのをやっていて、その意図について…

「顔面なしの空手の突きの意識で顔面ありをやる」

「実戦で弾くようなパンチはあり得ない」

先輩の指導であった基本ルール(極真ルール)+投げ
この基本ルールが消滅したことで、無意識下に刷り込まれていた筈の、「パンチではない、突きである」という認識が芽生える可能性はなくなった。

基本の最中、納得いかないと前屈での前蹴りの場面など何度も繰り返されることがあったが…基本の取り組み方が分かりやすい、全380本を全て全力でやっている人は国内に数えるほどの人数だろう。


強化合宿ですら、(何やこれ?)みたいな人はいた。
和多志は指導に於いて、あからさまに流してるのは徹底的に注意してたが、日常はもちろん審査とかでも酷いのが大勢いる。
仕方ない、基本軽視してようが勝てば良いのだから…

基本、移動、道場訓、これの意味とは細かい御託はどーでもいい話で、唯一在るのは…
「世界中で同一のことをやっている」
これに尽きる。だから、言葉が通じなくても飲めるし、日本なら初めて会う塾生だろうが年齢差あろうが関係ない、どこでも飲めた。


これがあっての独自路線は良いかも知れないが、ない上にカラー衣装だらけはどうなん?



(※以下、原文ママ)
夕方仕事終わり、先輩は寮の食堂で日本酒をよく飲まれていましたが、一度も一緒に酒を飲む機会はありませんでした。
格闘空手をそのまま体現して、実際に見せてくれたのは先輩でした。格闘空手とハンマーパンチ、記憶の中で永遠に・・・


ただ、Fと同じく

「今の大道塾にいることが想像できない人」
UFCが無くとも去っていた気がします。

北斗の咆哮がDVD化されました。
打投極…格闘空手の本質を体現した記録。東北本部での定時稽古、ハンマーパンチ養成稽古、東北本部での長田先輩とのマススパーは必見です。



そして、先輩はこう言っていた…

「道着を着ていない組技が重要」

柔術シフト前夜、SAW=格闘空手の組みの時代

市原先輩はサブミッションアーツレスリングも黒帯、取り立てて組技のバックボーンがあるわけでもないのに北斗旗で投げまくれるのはSAWに力があると思ったのと、単純にレスリング系の組技の方にUっぽさも感じたりしていた。


当時の寮の先輩だった長谷川先輩に紹介して頂き、朝霞にあるSAW総本部へ通うようになった。


良いお年を


つづく