霊界には現界に形として存在する全てのものが同様に存在すると言われています。

だから、人は死んでも中々死の自覚が持てない儘だと言う訳です。

本当は冥府で目覚めた段階で、直ぐに自分が死んだ事は分かる筈なのですが、何故なら死装束を着ている訳だし、ぐるりは見渡す限りに広がる瓦礫の原なのですから、少なくとも冥府と言う處の状況を生前から知識として知っていた人…例えば此のブログを読んでいる人達なら、六識に記録が入っているので、自分は既に死んでいる事位には思い至る筈です。

草の緑も無く、水の一滴も見当たらない、汚らしく尖った石塊だらけが何処までも廣がっている瓦礫の中を、擦り切れ、血に塗れた足を庇い乍ら、然も、其の苦痛は生きていた普段以上に過敏に感じ乍ら、もっと厚手の草履を何故履かせてくれなかったのかと、恨み言を呟きつつ、必死でニ昼夜ばかり、夫々物思いにふけり乍ら、痛そうに無口で歩む人達の群れに遅れまいと、歩いてやっと辿り着いて見て観れば、目の前に流れるのは、大体1メーターから二メーターばかりの蝮が大量に流れている蛇の川と言う訳です。川幅は恐怖に眩む目には良くは観えませんが、少し冷静な者の目には大凡五百メートル程と解ります。一番大量に流れる場所でも胸の位置位でしょうか…。水は一滴も流れず只管(ひたすら)蛇だけが流れる三途の川を、何とか頑張って渡り切ると、其処で初めて霊界の人間に遭う事に成ります。

鬼つまり獄卒達が待っている訳です。


実は、蛇の中に足を踏み入れ…丁度、踝辺り迄、蛇に浸かると、突然着ていた着物や洋服の色が変化して、自分の霊格が何の程度かを知る事に成ります…尤も、恐怖に包まれて居て、着ているものの色が変化した事にも気が付くかどうかは僕には分りませんが…。

変化した着物の色目は黒に近い茶褐色が多いみたいです…。

兎に角、其の色目が自分の行くべき境涯を示していると御神霊は仰言る訳です。

そして獄卒達と出逢う訳ですが、獄卒は何故か三人一組で対応して来る様です。其の獄卒長に当たるのが、牛王宝印で世に知られている牛王様です。

無論、其処には牛王様は姿を見せる事は無いですが。


稲津先生が其処を訪れた時は、何時も同じ三人組が出て来られたと言います。

川を渡り切るのは一人一人と成るからなのか、其の辺りの事情は分りませんが、何れにせよ、三人一組で所謂亡者を三途の川の向こう岸で待っている様です。

そして、縦十センチばかりの番号札を胸元にヒョイと付けられます。行くべき界層が此処で決定します。

そして、暫く獄卒達に追い立てられる様に更に瓦礫の中に出来た一本道を進んで、辿り着くのが所謂閻魔の庁と言う訳です。

其処で人間に生まれて初めて直に、神様と御逢いすると言う事に成ります。


霊界は霊格の大きさが身長の大きさをほぼ決定しますので、地獄の住人達は二十センチ以下に成って仕舞います…恐らく本人達には分りませんが。

周りに居るのは同じ霊格ですから、皆等しい身長の者ばかりですからね…。

だから神様は古来から巨人に描かれる訳です。

初めて見(まみ)える神様は俗に言う閻魔様ですが、佛教が説く閻魔様では無く、日本神霊の天之目一箇之大神様です。全身真っ黒の衣冠束帯で御出ましに成られます。やはり黒の笏を胸元に捧げ、天皇陛下の様な冠をお召に成り、椅子に座られて亡者の前に姿を御示しに成られます。

そして一言御声を掛けられるのです。

「其方(そなた)の行くべき處へ行け」…と。


閻魔の庁から追い出されると、今度は真っ暗闇の中に、僅かに其れと判別出来る田圃の畦道程度の一本道に立たされて居る事に気が付くのです。両脇は何処迄広がるのかは分りませんが、血膿が廣がっているのです。

畦道からま誤って血膿の中に落ちると、骨から筋肉でも削がれる様な激痛に襲われるのですが、血膿から抜け出すと、又身体は元通りに成ると言う訳です。

以前お伝えしましたが、死んだ直後に肉身の誰かが、死んだ人の住む近くの氏神様を訪れ、死んだ旨を幽世の大神様に御知らせを乞うて置けば、此の時に幽世の大神様が真っ暗闇の一本道でも、血膿に転げ落ちたりしないで済む様に、亡者の身内の者を誰か迎えに寄越して下さる事に成っていると言う訳です。僅かな一本の提灯の灯りですがホッとする様ですね…。


僕の父が亡くなった時に、僕が今にも雨が降りそうな雲に覆われた中を氏神様参りをしたのですが、鳥居の外から決められた言霊を述べて居ると、眼を瞑って周りが闇に包まれて居たのが、突然乳白色の柔らかな光に全身が包まれた様に成り、静かな風が鳥居の内側から流れ出すと言う体験をした事が有りました。「あぁ、此れで父も安心して冥府を越えられる」と、思ったものです。


そして、一本道は八街を通り、幽界、霊界へと続いて行く訳です。

ところが、霊界構造を知らず、況して真艫な霊学になんか触れた事も無いと言う、所謂普通の人達は、先ず冥府の経験を経ても、実際に歩んだ瓦礫の原も、三途の川も、閻魔の庁や巨大な閻魔様の事も八街や蛇の川の恐怖と言ったものも、どうも全てが長く恐ろしい一夜の夢の様に、行った先の幽界の夫々の世界で思い込んで仕舞う様なのですね。

つまり、自分は未だ生きて、何時も通りに生活している…と、思い込んで仕舞うのです。

あれ程の体験が全て現実では無いと、考えるのも意味が解ります。第一、知識的にも一つ眼の閻魔様なんて、現実的に持ち合わせていない訳だし、三途の川が蛇だけが流れる悍(おぞ)ましい川だなんて、誰も教えてくれた事が無いですから…六識に無いものは出て来ないのです。皆様は既に六識に有るから、実際に行けば直ぐ気付きますが、六識に無かったら冥府に行っても、其処が《死後の世界》だとは気付く筈が無いのです。況して、神様なんて存在し無いと思い込んで居る訳だから、実際に御会いしても、現実であるとは想像も出来ないと言う事に成ります。


そして、もう一つ、決定的に既に死んで、幽界に居ると言う事を"生きている"と錯覚させる要因が有るのです。殊に幽界の地上境に来た霊人達に多いのですが…。


現界に在る全ての形有るものは、皆《幽体》を持っている事実です。つまり、"この世"で用済みに成ったモノ、壊れて廃棄処分と成ったモノ、火事で"この世"から消えて仕舞ったモノ又はモノの一部…其れ等は全て幽界に移行して、幽界で存在し続ける事に成るのです。

芸術品、絵画、小説、漫画、彫刻…等々は其の質に応じて霊界の相応しい界層に保存される事に成ります。

扇情的なもの、暴力的なもの、悪意に由来するもの、其れ等は地獄に送られるのです。

そう言う類いのものを想像した者、作品を作った者、人々に悪意有る作品を撒き散らした者…全て地獄に堕ちます。

ですから、地上境に在るのは、"この世"の全てでは無いのですが、環状線を列車が走り、会社に学校にと人々は新しかったり、時代がかったりしたバスや列車で毎日街に出向いているし、街には少し見慣れぬ商店街だって有るし、娯楽施設も在る訳です。

唯、どぎついものが無いだけ…地上境で無く、霊界の地獄や幽界の暗黒境に其の手のものは行きますから。


然も、現界は幽界と一番接して居るのですから、時として非常に現界と幽界とが一瞬だけ混線する場所が出来たりするのですね。

第一、現界からは見えない世界ですが、普段から幽界からは心落ち着けて良く観れば、磨りガラス越しに物が見える様に見分けが付く様に現界を見詰める事が出来ますから、増々"死んだ"なんて露とも思え無い訳なのですね。


現界の人間が偶々幽界と激しく混線した場所に出合って仕舞ったら、突然過去の世界に紛れ込んだと思うかも知れませんね。

何しろ幽界には江戸時代の世界も、鎌倉時代の世界も、建物から何から何迄そっくり残って居る訳ですから、幽界から霊界へと進む事の出来ない人…つまり《死の意識》を持てない人だと三百余年程幽界に留まって居るそうですので、江戸時代には未だ人霊も居るかも知れません。其処に紛れ込んで仕舞ったら、案外霊界とは思わずにタイムトラベルをして仕舞ったと錯覚するかも知れないです。

或いは無人の街並みを見たり、時代の混ざり合った衣服の霊達が同じ世界を彷徨いて居るのを垣間見る事も有るかも知れませんね…。

何れにしても、幽界は現界の直ぐ隣に在るのですから、所謂幽霊は至る處に居るのです。

霊能者でも有る私達がふとした弾みで霊を見て仕舞う事なんて、殊更騒ぎ立てる様な事では無いのです。


此の"未だ死んでいない"と言う思いは、一つの執着と成り、様々な弊害…と言うとなんですが、色々と悪影響と成り他へも及ぼし、本人の魂迄も穢して行くのですね。

例えば、幽体と言うものは半物資なので、軈て腐ちて行くのです。身体がボロボロに成って行く訳です。霊界には物質的病いは無いですが、身体が腐ちて仕舞う事は有るのです。

《生きている》と思うと言う事は、即ち、其の幽体を物質的肉体と思い込んで居る訳ですから…幽界に留まる為に、つまり"この世"と錯覚している訳ですから今居る世界が幽界である等と露も思いません、其処で現界の人間の幽体…全く衰えて居ない、肉体に包まれた儘の新品の幽体を狙う様に成る訳です。精気を吸いに現界に姿を現す所謂吸血鬼等は、こんな類いの霊と言えます。

人を襲うUMAなんかは正に幽体狙いの半物資的妖怪の一種と言う事は容易に想像出来ると言うものです。


人の死に際に姿を好く現す妖怪達は其の類いの霊と言えます。肉体に残った幽体の残滓を啜り取るザリガニを想わす自然霊も大量に遺体に群がって居ますので、お通夜の場と言うのは、遺族も精気を吸い獲られる危険な場所でも有るのです。

知らない方が良いかも知れない"霊界の真実"だって有るのですね。

其れで、昔は通夜の席には妊婦や赤児、幼子を同席させるな…と諌めた訳です。

大人と違って子供や赤ん坊は脆いですから、精気を盗られたら直ぐ病に罹って大事(おおごと)に成って仕舞います。

獲られた精気は大体五十日前後で回復するので、其の間を喪中とした訳です。


兎に角、《死の自覚》を逸早く持つ事は、本人の為でも有りますが、因縁有る身内に執っても大事な事に成る訳ですね。

霊界に居乍ら、《未だ生きている》と執着する霊人は、己れの行為の其のものが、既に《生きていた自分の行為》と余りに掛け離れた"人間技"ですら無い事に思いも依らない様なのですね。

唯只管、自分の体を蘇らせて少しでも長く、今の世界に留まりたい…と言う、つまり《生き続ける己》であろうとしていると言う、つまり『生への執着』です、然も《誤った生への執着》と言う訳です。

本来は元より『生は永遠』なのですから。


生前から命は永遠のものである事を学んでいたなら、こんな魔界に堕ちる事も無かった筈なのですが…。

魔界に堕ちない迄も、霊界で間違った考えの儘で長く迷いの中を彷徨う霊は思いの外多いと言います。

そして其の惑うた思いの影響を受け続ける惑える地上の人間も又多いのです。

所詮"この世"は"あの世"との相互依存に因って動いているのですから。


霊界に学校が在る様に、霊界にも病院が在るのです。

但し在るのは所謂精神科だけの様です。外科や所謂内科と言うのは患者が居ませんから必要無い訳です。肉体を持つ現界の人間だけが其れ等を必要とするのです。人間の病気治しの為には少名毘古那之大神様が肉体的病も含めて担当召される訳です。

我々が真手等をする場合は、少名毘古那之大神様を呼ぶ咒を唱え、右手なり左手なりに乗って戴き、つまり霊流を戴き、マイスネル枝管から出る酵素作用と霊流に因って傷を癒したり、発熱を押さえたりする訳ですが、霊界の病院では、徹頭徹尾"内在意識の癖を治す事をメインに治療する"事が主体と成っている様です。


例えば、足の悪い人と言うのは、実は"悪い"と言う事は無いにも拘らず、自分の心の錯覚で足が悪いと思い詰めている間は、幽界に居っても足は動かないと言う事に成るのです。

其処で心を転換させ様としても、人間の心は不自由なもので、表面の心で「有る有る…」と思い詰め様としても、奥の心では「無い無い…」と言う訳です。

長い日々の習慣が、其れ丈深く深く心に刻んだ"思い"は簡単に剥がれないのですね。


例えば、「あの世なんか存在し無い。幽霊は全部錯覚か幻覚だ」と固く信じ込んで来た人には、本物の幽霊を目の前に出して見せても、決して信じ無いのです。人間の頑なな心と言うのは、死んでも簡単に解(ほぐ)れたりし無い所に不幸な事が起こるし、霊が迷ったりする訳です。

其処で所謂《催眠療法》が行われると言う訳です。

此れが、霊界と言っても幽界の病院の仕事と成る訳です。

霊界の病院と言うのは、幽界に在ると言う事に成ります。西洋の霊界通信でも同様の事を書かれている様ですが…。

然し、霊界に行っても魂として地獄へ行かずに夢幻界へ行っても、未だそう言う意味で片輪である御仁も在ると、御神霊は仰有っては居られます。

何れにしても、霊界の病院では内在意識の齟齬を治すのが病院の務めと言う事なのですね。


此処で一つだけ、所謂『心霊治療』を為さる方が気に病んでいる事かも知れないので、『心霊治療』を施して、治った場合に、其の因縁が来るのか…と言う質問に御神霊が答えて下されて居たので、お報せ致して置きます。

「因縁は来る…親が子を治しても、やはり来る」そうです。


だから、主護霊が末魂を治しても、其の因縁は主護霊が受ける事に成るそうです。

でも、其の因縁を"主護霊が全部被る場合"と"末魂が被る場合"とが有るそうです。

曰く…主護霊が少し重い荷物を持たせた方が、本人の足腰が強く成ると思えば、末魂に被せる場合が有ると言う事じゃな。

親が反省する場合、子供の反省は其れなりに悪かったと思っても、浅い事とやはり其の場的じゃろう。子供は先々を考えた計画的行動には出ないものじゃて…。

でも、主護霊は先々を考えた行動として《禊》に拠って得た霊流を活用しようとする。

だから、"反省の奥行"が子供の場合には、其の場限りに成る。

《反省》と言うものは、もっと計画的に遠い将来と言うものに於いて計画するじゃろう。


人間と言うものは、"この世だけを単位"に動くじゃろう。

主護霊の方は"あの世を単位"に動くじゃろう。

金儲けさせても、却って悪因縁を作ると成れば、金儲けはさせ無い。

此の様に主護霊の方は、長い計画に立って、反省の結果として動くと言う事に成る。

新たなる自覚の上に立って又反省する。


良いかな…『反省』とは《自覚する事》じゃよ…《不連続の連続》が『反省』と言う事じゃ。

やはり、霊界に居ると行き止まる。そして、霊流を戴きに行く…そして又行き止まる。

でも時には己れの鍛錬の為に、又地上へ出て来る。

『因縁』と言うものは、やはり地上に於いて行う事が一番主に成るのじゃよ…と言われた。