めぐり合わせをどう生きるか

 

人の運命はどのようになっているのだろうと、子どもの頃には度々思いました。

 特に「自分のめぐりあわせ」についいては悩みました。

 

 今では「ガチャ」というようですが、それを嘆いたって、言い訳とか逃げ腰になるだけで、人生の役には立ちません。

 

 「与えられた運命」は人それぞれで、生まれつき体の弱い人もいるし、頑丈な人もいます。背高ノッポもいればチビもいるのです。

  

 子どもの頃によく思ったのは「なぜ日本に生まれ、日本人なのだろう?」「アフリカや南米に生まれたって何の不思議もない」とか、「ミミズじゃあなくてよかったのか?」とかそんなことばかり思い悩みました。

 

 この歳になってみると「与えられた運命」や「人生のめぐりあわせ」については全く別の感想があります。

 

 父によく似た「手」に代表されるように、どうにも変えることのできない「人生の道」が描かれていて、その道が終わるまで一所懸命生ききれば、それを「めぐりあわせを生ききる運命」と納得しています。

 

 「シアワセ」はどうやら「めぐりあわせ」にあるのではなくて、それをどう生ききるか?なのですね。上手く行ってもへたくそでも全くいいのです。

 

 寿命が来たらそれを「よかったね」というのだと思います。

 

 こんなことを書きたくなったのも、明日「横浜あんしん会」があってそのテーマが『いのち やすらぎ』というものなのです。

 それで、いろいろ考えたのでした。

 

 とにかく「くだかけ会の愛言葉・よかったね・よく来たね」は大した言葉だったのです。与えられた運命を「生きる姿勢」を言い表しています。重要なことです。何十年も言ってきて今頃気付くのですからちょっと笑っちゃいますが。