お手軽廃線歩き 国鉄南武線貨物支線矢向~川崎河岸(その2) | kubodiのちっとも新鮮でないネタ

お手軽廃線歩き 国鉄南武線貨物支線矢向~川崎河岸(その2)

廃線跡は突然、趣を変えます。

 

ここまで廃線跡には建物が建てられていましたが、突然遊歩道に姿を変えます。

矢向駅は横浜市鶴見区と川崎市幸区にまたがっており、川崎河岸駅へと向かう線路はしばらくは横浜市を通りますが、まさにこの地点で川崎市へと入っていたのです。ちなみに横浜市側では線路跡がそのまま鶴見区矢向4丁目と5丁目の境界になっているようです。

かつて列車が走っていたことを強くアピールするモザイクタイルが現れました。

かつて川崎河岸という名前の駅があったことを強くアピールするモザイクタイルが現れました。

しかし残念なことにどういうわけか矢印の向きが逆なのです。

矢印の通り右に進むと、矢向駅に戻ってしまいます。

モザイクタイルを貼っているときに気づかなかったのでしょうか。

それとも何か意図があって、あえて逆向きにしたのでしょうか。

遊歩道として整備されているので、いろいろなオブジェが鎮座しています。

地域の子供さんの遊び場としての一面もあり、遊具も多く設置されています。

ここで廃線跡は大きな幹線道路と交差します。

第二京浜、国道1号。東京と大阪を結ぶ大動脈の中の大動脈。

南武線の本線と浜川崎支線は尻手駅付近で高架化されましたが、この貨物線は踏切で平面交差していたようです。

国道1号の先では、廃線跡に隣接して南河原公園がありますが、公園内の看板を見るとどういうわけかさいわい緑道が描かれていません。

この写真の左側に写る建物は南河原公園の敷地に建っているようです。建物の右側がさいわい緑道に当たるのですが、公園と緑道との境界がはっきりわからない状態でした。看板にもさいわい緑道を一体的に描くべきではないでしょうか。

しばらく進むと道幅が拡がります。いつの間にか川崎河岸駅構内へと入っていたようです。

都会の喧騒から少し距離を置くことができるような雰囲気ですが、かつてはこの場所に何本もの線路が敷設され、多くの貨物列車が出入りし賑わっていたのでしょう。

寒い季節にもかかわらず、花壇に咲き誇る花。

かつて多くの貨物列車が行き交った場所に、ゆっくりとした時間を過ごせる場所を設ける。

今までは忙しく働き過ぎたけれど、これからはもう少しゆとりを持とう。そんなメッセージを社会に向けて投げかけているようにも思えます。

旧川崎河岸駅の北側には河原町団地の大きな建物がそびえ建っています。

この場所は昭和45年頃まで東京製綱の工場があり、川崎河岸駅から専用線が引き込まれていました。

このほかにも、尻手駅近くにある川崎南部市場にも、この貨物線から専用線が引き込まれていました。

さいわい緑道を道なりに進むと、府中街道にたどり着きます。

府中街道に面して低い建物が建っていますが、その奥に緑道が広がっています。写真右奥の低い建物が途切れたところで府中街道からも緑道に出入りできます。

多摩川の土手にやってまいりました。

府中街道を渡り河川敷まで線路が延びていたのですが、痕跡らしきものは見当りませんでした。

河川敷に線路といえば、砂利を採取して建築資材として各地に供給する、ということが行われている場合が多いのですが、ここでは多摩川の上流で取れた砂利を船に積み替えて輸送する体制が取られていたようです。

 

 別ウィンドウで南武線貨物支線矢向~川崎河岸の地図を表示します。

 

○工都の大動脈

 

現在のJR南武線は、大正8年5月に多摩川砂利鉄道によって免許申請されました。

その後南武鉄道に社名を改め、昭和2年3月に川崎~登戸、矢向~川崎河岸が開業します。

その後も新線建設が続けられ昭和5年までに本線は立川まで延長、そして尻手~浜川崎の支線が開業し、現在の南武線の骨格が出来上がります。

旅客輸送のターミナルは川崎駅、貨物輸送のターミナルは川崎河岸駅にそれぞれ位置づけられました。

南武鉄道の路線を日本の大動脈である東海道線に当てはめれば、矢向駅が新橋駅、川崎駅が東京駅、川崎河岸駅が汐留貨物駅にそれぞれ相当するような立地と考えられ、川崎河岸駅は開業当初から陸運と水運の中継基地として、重要な役割を担っていました。

川崎のターミナルを旅客、貨物で分離したのには、既に工場が建ち並んでいた川崎駅付近での用地買収に難航したという事情があったようです。

 

当初は多摩川で採れた砂利を輸送する目的で会社が設立された南武鉄道ですが、上流域での採掘量が増えた結果、下流の南武鉄道沿線では上流から砂利が供給されにくくなり、早くも昭和9年からは採掘が規制されるようになりました。

砂利採掘が規制されるほど盛んに行われた理由のひとつに、関東大震災からの復興がありました。規制が行われる頃には復興もかなり進んでおり、また世界的な不況のあおりも受け、開業からわずか数年で南武鉄道の砂利輸送は行き詰ってしまいます。

 

南武鉄道では砂利以外にももうひとつ重要な貨物輸送がありました。多摩川上流域で採れる石灰石です。

川崎臨海部には浅野セメントの工場があり、南武鉄道の開通前は立川駅から中央線、山手線、東海道線を経由する迂回ルートで石灰石を輸送していましたが、南武鉄道の開通で大幅に輸送距離を短縮できることに浅野財閥も注目していました。

地元の有志で設立され資金繰りが苦しかった南武鉄道は浅野財閥の一員として歴史を歩むことになります。

 

明治時代から現在の川崎市は工場を積極的に誘致し、また近隣の町村と合併し工都と呼ばれるまでに発展しましたが、その流れは南武鉄道の開通で東側の沿岸部や川崎駅周辺から南武鉄道沿線へと広がっていきます。ちなみに川崎河岸駅から専用線を引き込んでいた東京製鋼川崎工場は大正14年に操業を開始したようです。

 

昭和15年10月には、五日市鉄道(現在のJR五日市線)と合併します。さらに青梅電気鉄道、奥多摩電気鉄道(現在のJR青梅線)、鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)とも合併し、関東電鉄となる計画でした。浅野財閥の傘下にあった鉄道会社が合併し、鉄道輸送の連携を強化するねらいがありました。しかし、これらの路線は昭和19年4月までに国有化されます。

沿線に軍事施設や工場が多く立地し、それに加え南武鉄道は東海道線と中央線を短絡する路線としても軍事上、産業上重要であると判断されたようです。

砂利輸送の衰退と南武支線の開通であまり利用されていなかったと思われる川崎河岸駅の陸水運の中継基地として機能も、戦時中には軍事物資の輸送に活用されていたようです。

 

○工都からベッドタウンへ

 

戦後、戦時中に国有化された路線を民間に払い下げる動きがあり、国会でも法案が提出されました。

旧浅野財閥の路線だった南武線、五日市線、青梅線、鶴見線も民営化し関東電鉄を再び立ち上げようということになりましたが、法案は国会で審議未了となってしまいます。また財閥解体が推進されていたこともあり、以後国鉄そしてJR東日本の路線として歴史を歩むこととなります。

 

戦後の南武線は輸送力不足が深刻な問題になります。

昭和35年には手狭になった矢向電車区を移転し中原電車区が開設されます。矢向駅の側線は留置線として引き続き使用されます。

昭和38年には川崎~稲城長沼で6両編成運転が開始されます。まだ車両の長さが統一されておらず、現在の南武線の列車よりも少し短かったようです。

昭和41年には川崎~立川の本線が全線複線となります。開業間もない頃から少しずつ行われていた複線化がようやく完了しました。

昭和51年には南武線の南側に並行して武蔵野線が延長します。この時開業した府中本町~鶴見は貨物線として建設され、府中本町~尻手を走っていた貨物列車の多くが武蔵野線経由になりました。不完全ではあるものの東海道線と中央線との短絡線について旅客線は南武線、貨物線は武蔵野線という棲み分けができました。

 

昭和40年台、川崎市では公害問題が深刻になります。また、沿線に建ち並んだ工場も業務拡張のために地方への移転が進みます。

川崎河岸駅から専用線を引き込んでいた東京製鋼川崎工場も昭和45年に茨城県の土浦工場(かすみがうら市に立地します)に移転拡張しました。

この頃には川崎南部市場も引き込み線を使用することはなくなっていたようで、昭和47年5月25日、ついに川崎河岸駅へと向かう貨物線は廃線となります。

その後、横浜市側では線路用地の払い下げが進み、川崎市側は昭和51年にさいわい緑道として整備されました。

 

○南武線に眠る、その他の廃線

 

並行して流れる多摩川の砂利が採取され沿線には工場が建ち並ぶ。時代の変化に伴ってそんな南武線沿線の街並みも大きく姿を変えていきました。それと同時に南武線から毛細血管のように枝分かれしていた貨物線は姿を消しました。最後に矢向~川崎河岸のほかに3つほど簡単ではありますが南武線の廃線を紹介したいと思います。

 

・向河原~市ノ坪

 

向河原駅のすぐ近くには、貨物線の橋台が残っています。

貨物線が現役だった頃は道路はもう少し低いところにあったのかもしれません。

廃線跡は川崎河岸方面と同様に遊歩道として整備されています。

道なりに行くと、横須賀線や湘南新宿ラインが走る高架線に突き当ります。

この先に市ノ坪駅があったようです。

 

昭和4年8月、鉄道省品鶴線が開通し、新鶴見操車場が開設されます。その翌月にはこの貨物線も開通します。市ノ坪駅は操車場に隣接し、南武鉄道と省線との間で貨物をやりとりしました。すなわち南武鉄道と全国津々浦々をつなぐ、重要な貨物線でした。

昭和48年10月1日この貨物線は廃止となりますが、南武線と新鶴見操車場をつなぐ路線はもう1本あります。

昭和26年に尻手駅から尻手短絡線が敷設されており、新鶴見操車場が廃止され信号所に模様替えした現在も貨物列車が走っています。

 

新鶴見操車場の開設に伴い、南武線のルートも当初の計画から少し変更されたようです。

 

・登戸連絡線

 

登戸駅は南武線と小田急線の乗り換え駅となっており重要な駅ですが、かつてはこの駅の近くで線路もつながっていました。

昭和11年、南武鉄道登戸駅から少し宿河原寄りの地点と、小田急線稲田登戸(現在の向ケ丘遊園)駅をつなぐ路線が開通します。

名目上は貨物線として敷設されましたが、東京競馬場でレースが開催されたときに小田急線と南武鉄道を直通運転する旅客列車を運転するなど、小田急線と南武鉄道で電車の融通をすることがしばしば行われていたようです。

 

戦後まもない頃にも、南武線の輸送力増強のために登戸連絡線が重要な役割を果たします。

旧南武鉄道に所属していた電車は国鉄で作られた電車よりもひとまわり小さく、南武鉄道の電車の大きさに合わせて作られた線路では国電が走れない状態でした。

昭和22年、南武線では国電が走れるように線路の改良工事が行われていましたが、南武線は旧南武鉄道の電車が空襲を受けた影響もあり、深刻な車両不足に陥っていました。

そこで当時小田急線を運行していた東急から電車を借り南武線に走らせ、同じ車両数の国電を東急に貸し出すという電車の融通が行われました。

 

その後、世相が安定すると電車の融通も行われなくなり、貨物列車も走らなかったことから昭和30年代には登戸連絡線の線路は荒れ果てた状態になってしまったようです。

昭和42年3月にはついに登戸連絡線も廃止となりました。

 

廃線跡に多くの建物が建ってしまい、廃線跡を探索するのは少し難しいかもしれません。

 

・浜川崎貨物支線

 

八丁畷の駅前、京急線や旧東海道を跨ぎ越していた部分に、貨物線の橋台が残っています。

反対側の橋台はすでに撤去され、令和の時代になり建物が建とうとしています。

レンガ積みの橋台の上には草木が茂り、廃線になってからの時間の長さを物語っています。

なんとなくエジプトのスフィンクスをほうふつとさせる風貌、川崎のスフィンクスと名付けたい。

 

東海道線川崎駅から分岐していた貨物線で、東海道線の支線であり南武線の路線ではありませんが紹介したいと思います。

大正7年5月に当時の鉄道院により川崎~浜川崎が開通し、その後昭和5年に南武鉄道も尻手~浜川崎の支線を開通します。

南武支線と浜川崎貨物支線は八丁畷~浜川崎では並走していました。浜川崎駅には鶴見臨港鉄道も乗り入れ、3者の貨物のやりとりが行われました。

南武鉄道が国有化される直前の昭和18年9月、川崎新町駅に隣接して小田操車場が開設されます。

浜川崎駅での貨物のやりとりが増大し、処理が追いつかなくなったという事情があったようです。

 

昭和48年10月に浜川崎貨物支線は廃止となりました。

その後、この貨物線を「川崎アプローチ線」と名付け旅客線として復活する構想が持ち上がりますが、令和の時代になっても具体的な動きはないようです。

 

南武線の前身である南武鉄道が設立されてから1世紀が経過しました。次の100年で南武線はどのように姿を変えていくのでしょうか。