気になる未成道 柿生町田線(その6) | kubodiのちっとも新鮮でないネタ

気になる未成道 柿生町田線(その6)

2011年1月、4月、2014年3月、2015年9月訪問
 

5回にわたって柿生町田線の様子を紹介してきましたが、沿線で個人的に気になるところをもうすこしだけ取り上げてみたいと思います。
 

○柿生駅周辺再開発

柿生駅は昭和2年に小田急線の開通と同時に開設され、駅周辺は旧柿生村、すなわち現在の川崎市麻生区にほぼ相当する地域の玄関口として発展してきました。
駅自体も貨物側線や副本線を備えるようになり、一時期は柿生駅終着の列車が設定されるなど、拠点駅としてそこそこの規模を誇っていました。
しかし、昭和49年に小田急多摩線が開業し、多摩線と本線との合流点である新百合ヶ丘駅が開設されたことで玄関口の役割を失うことになり、昭和52年頃には副本線も撤去されてしまいました。



かつて副本線があった場所はホーム延長用地のほか、エレベーター、売店、駐輪場など、機能的な駅を形成するために必要な施設を設置するスペースに充てられています。

多摩線沿線や、川崎市の副都心として位置づけられた新百合ヶ丘駅周辺で街づくりが進む中、柿生駅周辺は発展から取り残されるかたちとなり住民にも焦りがあったようです。
昭和50年代後半になって柿生駅近くに麻生環境センターという、麻生区の下水を一括処理する下水処理場の新設計画が持ち上がります。この計画に対し、柿生駅周辺の住民からは「駅前再開発が先だ」と反発の声があがります。この頃には人口増大で柿生駅や駅周辺道路のキャパシティ不足はかなり問題になっていたようです。
その声に応えるかたちで川崎市は昭和59年に「柿生駅周辺地区整備構想」を立案しました。駅周辺36ヘクタールを整備する計画で、昭和75(平成12)年完了を目標としていました。
地元住民も昭和62年に「柿生駅東口地区市街地再開発準備組合」を発足し、柿生駅を所有する小田急電鉄も駅構内に準備組合の事務所を設置し専属の職員を配置するほどでした。
しかし再開発は遅々として進まず、時間ばかりが経過していきます。
平成10年に計画を見直したようですが、それでも進みません。
再開発が進まなかった理由のひとつに、柿生町田線の起点がある尻手黒川道路の整備が遅れたことにあるといわれています。
尻手黒川道路は一部が横浜市を通るものの、東名川崎インターチェンジに接続するなど川崎市を縦断し東西を結ぶ重要な幹線道路です。
しかし、柿生町田線と接続する辺りでの工事では反対運動が大きく、工事を一時中断せざるを得ない状況に陥りました。



この区間は平成22年になって、高台になっている山口台地区から小田急線や麻生川を一気に跨ぎ越し県道3号世田谷町田線との交差点に着陸するような線形で、ようやく開通しました。この先に残る未開通区間も用地買収が進み、尻手黒川道路の全線開通も見えてきました。
この部分の開通で柿生駅近くでの地域分断はある程度解消され、新百合ヶ丘駅周辺の渋滞も緩和されたようです。
柿生町田線については、おそらく柿生駅前再開発で事業中の区間の次は、さらに北へと針路をとり尻手黒川道路との接続が行われるのではないでしょうか。
 

○飛び地・岡上

川崎市麻生区岡上は旧岡上村が旧柿生村とともに昭和14年に合併されて以来、現在まで川崎市の飛び地となっています。
その中でも柿生町田線が通る予定の岡上西地区は三方を山に阻まれ幹線道路も現状では存在しないため、宅地化されているにもかかわらず僻地の様相を呈しています。



岡上西地区を南北に貫き、将来的には拡幅され柿生町田線となる道路から、南の横浜市青葉区奈良町方面を望む。
しかし、山に阻まれ奈良町の町並みは全く見えません。



尾根道と呼ばれ、岡上と奈良町を分かつ道路に登る。写真では道の左側が奈良町、右側が岡上となります。
少し奥に写る郵便屋さんと道幅を見比べてみてください。
けっして郵便屋さんが巨人であるわけではない。大きな車両はまず通れません。



そして尾根道と岡上の住宅街を行き来する道のなかで、もっとも南、すなわちもっとも奥にある道がこちらです。
現在でもこのように狭く急な階段や坂道を上り下りしなければ、隣接する奈良町にたどり着く事ができません。

 山に阻まれ人々の足は自然と北の柿生に向く。

明治22年に町村制が施行され、現在の岡上に相当する旧岡上村、現在の奈良町が属する旧田奈村、町田市の一部になる旧鶴川村、岡上村とともに川崎市麻生区の原型となる旧柿生村が形成されます。
岡上村と田奈村は、同じ神奈川県都筑郡に属ししかも隣接しているにもかかわらず、あまり交流のない状態が続きます。

明治26年には鶴川村が属していた南多摩郡が、西多摩郡や北多摩郡とともに神奈川県から東京府に移管されます。江戸時代以前、養蚕が盛んだった時代には岡上は多摩郡との交流もそれなりにあったようですが、東京府と神奈川県に分かれてしまったことで、鶴川村との結びつきも弱くなってしまったのでしょうか。

柿生村と岡上村の間に食い込むような形で鶴川村の土地が広がっていますが、岡上村の北側は比較的平坦なところがあるので、鶴川村を経由して柿生村と岡上村を行き来するのは今も昔も難しいことではありません。
そのため柿生村と岡上村は共同で、禅寺丸柿(ぜんじまるがき)と呼ばれる、まさに柿生村と名付けられる由来となった柿を栽培したり、柿生村外一ヶ村組合という町村組合を結成して行政面でも連携するなど、結びつきを強めていきます。

昭和14年に都筑郡は消滅します。12あった村のうち、田奈村を含む10村は横浜市と合併しますが、残る2村、すなわち柿生村と岡上村は川崎市との合併を選びます。
昭和2年に小田急線が開通し、柿生村には柿生駅が開業し、岡上村でも村のすぐ北に鶴川駅が開業、線路がつながる東側の生田村など現在は多摩区となっている地域との交流も強まりました。さら同じ年には現在のJR南武線になる南武鉄道も開業しており、登戸駅で乗り換えれば川崎市の中心部にも簡単に出かけられるようになりました。
また、工業都市としての川崎市の発展に柿生・岡上両村が経済的に期待を寄せていた面もあったようです。

戦後、昭和28年に柿生岡上線という都市計画道路が都市計画決定されました。古くからの両地区の結びつきを象徴し、さらに強めるような道路を作り、戦後復興を後押しするねらいがあったのかもしれません。この道路も山を越えかつて袂を分かった奈良町を目指していたようで、この柿生岡上線が現在都市計画決定されている柿生町田線の原型になったようです。



岡上西地区は昭和34年ころから宅地開発、分譲が始まったようで、現在では斜面にびっしりと建物が建っています。そして昭和39年には地区住民で岡上西町会が結成されます。



沿道には昭和41年に和光大学が開校します。
岡上西地区も文教地区になると歓迎され期待もされましたが、この頃に当時はまだ柿生岡上線と呼ばれていた柿生町田線をめぐって地区住民、大学、そして川崎市の間でひと悶着あったようです。

岡上西町会と和光大学を運営する和光学園は川崎市議会に水道敷設を請願し採択されます。ただし道路拡幅が付帯条件として付けられていました。
大学設置にあたっては、法律との兼ね合いもあり、まだ舗装もされず畔道ほどの幅しかなかった道を幅7mまで拡幅することで川崎市から許可を得ていました。
しかし文部省の現地視察の準備をしなければならないとして、道路の拡幅は後回しにされてしまいます。
川崎市も道路が拡幅されていないので水道工事をいつまでたっても行いません。
昭和42年には道路拡幅の付帯条件を外し、岡上西地区全域で上水道工事が完了します。
しかし道路の改良については舗装こそ行われたものの拡幅については行われずじまい。
ついに昭和48年には新聞のネタにされてしまいます。
川崎市に昭和46年に道路を拡幅する旨の念書を出していながらも開校以来の赤字を理由にいつまでも拡幅工事に着手しない和光大学、そして念書があることで大学を信用しなにも指導を行わない川崎市の双方に対し、地区住民の怒りが頂点に達していました。
岡上西町会の調査では1時間あたり約150台車両が通り、そのうちの80~90%は大学関係の車だったそうです。
和光大学手前から約1kmほどは道幅が3.5~4mほどしかなく、この狭い道に頻繁に車が通り、また車がたまたまいないと今度は学生が道幅いっぱいに広がって歩くので、地区住民が道沿いの田んぼや川に転落したり、学生の運転する車にひき逃げされたりと、交通事故が絶えませんでした。
岡上西地区の住民は、この危険な状況を早く改善してほしいと市議会に陳情書を提出したのでした。
住民の陳情を受け、そして新聞のネタにもされたことで大学も市もようやく重い腰を上げ拡幅が行われたようです。
ところで柿生町田線は幅16mで計画されています。柿生町田線が着工されれば7mへの拡幅工事は無意味になるため、大学側には早期着工の可能性に期待を寄せていた面もあったようです。

柿生町田線のルートで岡上と奈良町を結ぶにあたっては、おそらく300m程度の長さのトンネルを掘る必要があると思われます。
掘削用の機械に頼らず、簡単な道具を使った手掘りだけでこの距離を掘るには、膨大な労力と時間が必要になります。もとより交流の少ない寒村同士をトンネルで結んでも、あまり両地域の発展にはつながらないように思えます。

 別ウィンドウで柿生町田線のマップを表示します。

岡上西町会結成20年を記念して発行された冊子に、元町会長の春川さんがこんな言葉を寄せています。

 もともと地上に道は無い、みんなが歩けば道になる

これは中国の思想家である魯迅さんが残した言葉です。
春川さんによると、霜解けの時期には自転車では思うように走れなかったり、タクシーに乗っても途中で降ろされたりと、かつては道路とは名ばかりの状態だったようです。
それが和光大学の開設で大学関係者が通行するようになって北の鶴川駅や柿生地区方面への道は舗装や拡幅が実現する反面、相変わらず南の奈良町方面への道は険しい地形に阻まれ改良が進まない。とてもこの道路の実態にマッチした言葉に思えます。

この記事を書いている2016年現在、柿生町田線は、町田駅前の約500m程度が供用され、柿生駅前の約200mが再開発に伴い建設中という状態です。

まさに「みんな」、すなわちたくさんの人や車が通る場所が、道になっているではありませんか。