実は、ヘーゲルの感想を書く前に面白いことがあったので、先にその話から始めます。そのために今回は「予告」としました。ヘーゲルの『精神現象学』 にいうタイトルにひかれ、さがしていました。4月の23日ごろですか、仕事の帰りによく行く高尾の古本屋で見つけました。しかも二冊ありその場で購入したかったのですが、『精神現象学』 2.000円ぐらいの値段がついていたので、給料前なのでその日は購入をあきらめてしまいました。後日、意気揚々と『精神現象学』を求めに行きました。が、ヘーゲルがあった所を知っていたので見ると。無い!無い!よく探したけれど無い、厚い本のヘーゲルは有りましたが、欲しかったヘーゲルが居ない。店員のお兄さんに聞くと「売った覚えはない」と本を移した覚えも無いと言われがっかりして帰ろうとしたら、ヘーゲルがいた場所から離れながら目を横にずらすと。棚に並んだ本の上に横向きに置かれた、厚い本が目に入ったのです。「イエス・キリスト」遠藤周作?ふ~ん、キリストの本は何冊か読んでいるから・・・・遠藤周作?まてよ、過去にも遠藤周作に勧められた本(「沈黙」)があり、待てよまたか?と、思いしかも300円!ならと買い求め。そして読み始めてから何日かしてから、また電車待ちのあいだに古本屋に立ち寄ると。

え~~~ヘーゲルが居る!!!それも、遠藤周作が居たあたりに・・・・隠れるようにヘーゲルが、店員さんに思わず「これこれ」と喜びながら購入・・・・。で、結局、何故!?

私が思うに「イエス・キリスト」遠藤周作を読むと、私が感じた思いは・・・・・。

幸いなるかな  心貧しき人  天国は彼らのものなればなり

幸いなるかな  泣く人   彼らは慰めらるべければなり

これに、私は疑いを持つのです、何故心の貧しい者が天国に行くことができるのか?とゆうことに違和感を持つのです。

また、第二章 辛い,長い,夜の中ではルドルフ・ブルトマンはこんなことも言っています。

「イエス自身はキリスト教徒ではない」

p414~

「神の沈黙」何故神はイエスや教徒を救わずに「沈黙」したのか?

p416~

けれども、経過がどのような過程を踏んだものであれ、四月の春、ゴルゴタの丘で処刑された男は十年後には既に神格化されはじめていた。しかも驚くべきことは彼らはこれらの弟子、これらの信徒たちから理想の人間(たとえば釈迦のように)、理想の信仰者(たとえば他の宗教の教祖のように)ではなく、信仰の対象そのものとなってしまったのだ。これは世界の宗教のなかで他に例を見ないことである。

キリスト教の問題の核心はここにあるキリスト教の問題の一つは、イエスが信徒たちに神格化されたからキリストになったのか、それともポーロの考えるように、人間が彼を神格化したのではなく、彼自身がこの地上にイエスという仮の名で生まれる前から、より高い存在だったのか、いずれかを問うことである

今日は非常に長い文章になってしまいましたが。すべての答えは私のブログを注意深く読めば分かります!!!