第111本 『祇園のしきたり』 渡辺憲司 青春出版 | 一遊一夜〜語るに足らぬ私について語るときに私があえて語ること〜

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遊戯三昧の書評。
本の批判はここではナシよ。

『祇園のしきたり』 
渡辺憲司 青春出版






 京都は思い出深い街である。
 その昔、女にフラれたからだ。


 もう早速、オチをつけ読者を幸福(ここで言う幸福とは、他人の不幸を見聞した時に起こる愉快な気持ちと定義したい)にさせたのでこれ以上書く必要もなさそうだが、とりあえずこの動画を見ていただきたい。




 お座敷遊びの一つである「金毘羅船船」だ。


 綺麗な舞妓さんを見たところで、祇園のしきたりについて学びたい。


 まずは祇園の歴史から。
 京都には俗に「五花街」と呼ばれる花街がある。
 まずは、祇園。一口に祇園といっても、祇園は祇園甲部と祇園東の二つに分かれる。
 そして宮川町、先斗町、上七軒、島原の合計6ヶ所が花街と呼ばれる。そのうち島原以外の残り5つが「五花街」と言われている。島原には舞妓がいないために、五花街には入らない。上の地図が本書のもの。下は京都関連のHPで拾った。見やすい方を参考に。



 
 五花街はいづれも、人が集まる自社の近くに位置している、という共通点がある。
 もともとのお茶屋の起こりは、寺社に参詣する人を相手に簡単なお茶屋が出来たところに由来する。それが次第に店構えを大きくして、お茶屋へと発展していったのだ。客の相手をする茶立女(ちゃたておんな)がおり、店内では歌舞音曲が流されていた。次第に客の相手をする専門の女性、つまり芸妓が誕生した。そして芸妓予備軍である十代の女性を舞妓と呼んで、店に華を添えたのである。


 上七軒は、北野天満宮の近くにある。ここは京都最古の花街と言われている。
 先斗町の名前の由来は、ポルトガル語の「ポント(先端の意)」からいまれたという説がある。諸説あるから興味があれば調べて欲しい。お茶屋の数は40軒あまりである。
 宮川町は、もともとは役者が多く住む街であったが、芝居目当ての客を相手にするお茶屋が増えていった花街である。お茶屋の数は先斗町と同じ40軒ほどである。
 
 そして残り二つが祇園(祇園甲部・南部)である。
 勿論、規模で言えば祇園が最大であることは明らかだ。祇園甲部と南部に分かれているが、もともとはひとつの花街であった。以下で祇園を詳しく見ていきたい。

 


 「794 ウグイス 平安京」
 京都は794年に、平安京として造園され遷都された。明治維新によって江戸が東京に変わり、1869年に天皇が東京に映るまでの約1000年間、京都は日本の都であった。 写真は拡大して参考にされたい。


 平安京を造園したのは桓武天皇である。平安京に遷都される前は、奈良・平城京であったわけだが、この平城京で活動していた僧たちが平安新仏教の担い手でもあった。
 仏教の持つ鎮護国家の思想を受けて、奈良の平城京では聖武天皇による国分寺建立や大仏造立などの大事業が進められた。しかし、仏教保護政策下におけるこれらの事業は、国家財政にとって大変大きな負担となっていた。
 また仏教は単なる現世利益の手段とされたり、仏と神は同一であるという神仏習合思想などが起こった。その中でも仏教及びその僧たちは着実に力をつけていった。有名なのが道鏡である。

 
 こうした動きを肌で感じていた桓武天皇は、仏教政治の弊害を避けるために平安京に内部には寺を立てない方針だった。
 事実、造園当時、寺は羅城門の左右にある東寺と西寺だけであった。
 後に東寺には空海が入り、発展を遂げた。西寺はというと、個性的な僧が現れることなく、衰退し、もう今では発掘によってしかその存在を確認できない。


 そして876年に時の摂政・藤原基経が居宅を寄進して観慶寺を建立。この行為を天竺における須達多長者が祇樹拾孤独園(ぎ・じゅ・ぎっ・こ・どく・おんと読む)精舎を建てたことになぞらえて人々は寺を祇園寺と呼び始めたのだ。



 先にも述べたように、お茶屋の起こりは寺社参詣に訪れた客の休憩所であった。勿論、男はお茶だけで満足するはずはない。そのうち酒や料理も供するようになる。酒と肴が出れば、あとは女が必要になってくる。そして茶立女が酒の接待をし、そして夜のみの営業しかしない店まで登場することになる。そうして祇園は賑わいをみせていく。


 そうするなかで、非合法の遊女がでてくる。そして、お上の事情から1790年に官許がおり、祇園には遊郭としての賑わいさえうまれた。これは昭和33年の赤線廃止まで約170年間も存在することになった。
 芸妓と遊女はほとんど見分けがつかない。そこでどうしたかというと、芸妓は歩くときに和服の裾の端(褄という)を左手でつまんで歩く。一方、遊女は妻を右手でもっていた。その名残からか、現在も舞妓・芸妓は褄を左手で持って歩く。


 その後祇園は大火に見舞われたりするのだが、迅速な復興をとげた。世界恐慌の時でさえ、びくともしない街であった。
 しかし日中戦争~太平洋戦争の時分になると、さすがの祇園にも暗い空気が漂うようになる。
 そこでお茶や組合が機転を利かせた策をとり、このおかげで戦争後の祇園は全国の花街の中でもいち早く復興した。


 

 祇園の一年の大まかな流れを次に見ていきたい。
 1/7・・・始業式  祇園では7日が仕事始めである。この時に、芸妓はかんざしの他に髪の左に本物の稲穂のかんざしを、そして舞妓は髪の右に稲穂のかんざしをさす。このかんざしの稲穂から三粒だけとり、それを紙で包んで財布に入れておくと金運が良くなるといういわれがある。それを知っている客たちは始業式後にお茶屋を訪れ、米粒をもらって帰るという。こうして祇園の一年は始まる。以下の写真は始業式のものである。







 2/3・・・節分・お化け
 節分は説明不要だが、「お化け」とはなんだろう。決して歳をとった芸妓のスッピンをさすのではない、ということは先に述べておく。
 お化けとは仮装大会のようなものになる。舞妓や芸妓がいつもと違う格好をしてお座敷に上がる。客は祝儀を弾み、賑やかに談笑する。このお化けのために一年もかけて仮装の準備をする芸妓・舞妓もいるという。客が祝儀を弾むおかげで、「お化け」のくせにあしがつく。・・・おあとがよろしいようで。



 4/1~30日・・・都をどり
 動画を見なさい。

  

 

 
 7月・・・祇園祭






どうしても祇園祭といえば山鉾巡行だけに目が行きがちであるが、この祭りの目的はこれではない。中心行事は神幸祭であり還幸祭だ。
 大神輿が3基出て、八坂神社→各氏子町へ→四条寺町の御旅所(ここに神輿は7日間滞在)というのが神幸祭だ。還幸祭は、御旅所に7日間滞在した大神輿が八坂神社の帰ることをいう。
 こうして見ると、祇園祭は八坂神社だけのものに思われるが、もともと祇園祭は御霊会が発展した祭りである。
 御霊会とは御霊を鎮める会である。死産災害や疫病がはやると、その原因は無実の罪で裁かれた人の魂が現世を祟っていると考えた。その魂を御霊会によって鎮魂させようとしたのである。



 8/1・・・八朔(はっさく)
 八朔とは、八月朔日の略で八月一日のことだ。「朔」という字は、一日を表す。「晦日」という言葉があるが、それと対をなす言葉である。
 祇園の八朔は、芸妓や舞妓が普段お世話になっている師匠やお茶屋へお礼参りをする日になっている。この日は芸妓・舞妓ともに黒の絽の五つ紋で正装する。中には日差しよけの日傘をさす舞妓もおり、思わず息を呑むような艶やかな世界となる。









 10/22・・・時代祭
 日本の三大祭といえば、天神祭・神田祭・祗園祭であるが、京都の三大祭と言えば葵祭(5月) 祗園祭(7月) 時代祭(10月)である。このなかで祗園祭と時代祭は他の花街の舞妓・芸妓も参加する。
 時代祭は平安遷都1000年を記念して1895年(明治28年)の10月に初めて開催された。その年は記念事業的性格が強かったのだが、翌年から桓武天皇と孝明天皇の御霊を住まいである御所から平安神宮まで友を従えて行列していくという現在の形式になった。
 この祭りのハイライトは、桓武天皇の平安時代~孝明天皇の幕末までの京都の風俗を時代の流れに沿って扮装し、行列していくところだ。
 行列の先頭は明治維新時代→江戸時代→安土桃山→南北朝時代→鎌倉時代→藤原時代→延暦時代と時を遡る配列になる。総勢2000名、長さ2はキロになり、ちょっとした渋滞と見紛うほど大行列が街を歩いていく。
 舞妓・芸妓は藤原時代に参加をし、平安期の婦人や女人に扮装する。
 祇園をはじめとする各花街の舞妓・芸妓が扮装し歩く姿は、ハロウィンのようなただの仮装行列ではなく、雅とか艶という言葉で形容される行進である。


 12/13・・・事始め
 「事始め」という言葉を聞いて、おやっと首をかしげた方も多いだろう。この中途半端な時に何をはじめるのか、と。
 これは正月を迎える準備のことで「迎春の事を始める」ことから「事始め」となった。舞妓や芸妓は一年間お世話になった師匠やお茶屋へ、この一年の挨拶をする。8/1の八朔が一年の後半の始めの挨拶回りで、事始めが一年の終わりの挨拶回りとなる。


 
 12/31・・・おことうさん・白朮詣(おけらまいり)
 舞妓と芸妓が大晦日に挨拶回りをする。事始めで挨拶は済ませたからいいのではないかと思うだろうが、花街は簡易・簡便・効率主義とは対極にある。代行お墓参り的性格は持ち合わせていないのだ。
 お茶屋の玄関で「おことうさんどす」と挨拶する。「おことうさん
」とは「お事多うさんです」が縮まったもので「お忙しいですね」という意味になる。
 除夜の鐘がなる頃になると、八坂神社では「除夜祭」が始まる。この除夜祭の後神火を「白朮火」とも呼ぶ。その火を火縄に移して持ち帰り、正月の雑煮などの火種として使えば、一年の間無病息災でいられるといういわれがある。これを「白朮詣」という。

以上が祇園の一年だ。

 

 

 ところで舞妓と芸妓の違いはご存知だろうか。
 年齢である。
 舞妓は十代の少女で、芸妓は二十代以上の大人の女性である。だいたい昔は14歳~16歳くらいで舞妓としてデビューした。つつがなく4~5年たつと、年齢も20歳を超えるようになる。この頃になると、舞妓の格好は似合わなくなる。これを「えずくろしい」(見苦しい)という。この時期に屋形のおかあさんが「襟替え」でもしようか、という話をしてくる。「襟替え」とは舞妓から芸妓になるという意味で、着物の下に着ている長襦袢の襟の色を舞妓の時の赤から白にかえる。これを一本立ちした様子から、「一本になる」「自前になる」と形容する。


 祇園のお茶屋は「一見さんお断り」である。これはよく聞く話だ。
 ではなぜ、一見さんお断りなのだろうか。
 結論から申し上げると「おもてなしの心」である。
 滝川クリステルなのだ。


 3点理由を挙げたいとおもう。
 ①→祇園における支払方法は「ツケ払い」である。簡単に言えば信用売りだ。江戸時代には金銀小判が使われていた。これは非常に重い。(理科でならっただろう) 持ち運びに不便である。しかも大金を懐に入れて歩くのは物騒だ。そこで祇園では、どんな人物かさえ分かっていればツケでよし、としたのである。だから一見さんは断った。
 ②→お茶屋はおかみさんたちにとっては住居である。見知らぬ人物をお茶屋にあげてはこれまた物騒な話である。
 ③→お茶屋での段取りは、おかみさんにかかっている。料理の選択から遊ぶ時間そして値段、これら全てを差配するのがおかみさんだ。まず、初めての客だとどのくらいの予算で遊べるのかわからない。料理の好みも知らなければ舞妓さんの接待の仕方も不明である。常連さんだとこんなことは起こらない。要は「おもてなしの心」である。一見さんお断りの本質はここであろう。


 さてさて、あなたが無事にお座敷に上がれたと仮定して、話を進める。
 お座敷で盛り上がるのは、やはりお座敷遊びだ。
 拳遊びと言われる、野球拳、狐拳、虎拳などがある。野球拳は、現在では着物は脱がない。客は脱ぐ場合があるようだが、ジャンケンに負けた場合は、盃の酒を一気に干すのである。虎拳は「和藤内」「老婆」「虎」がでてくる。これらが三すくみの関係となる。和藤内は槍をさす仕草、老婆は杖をつく仕草、虎は四つん這いになるのが基本の体勢だ。座敷の真ん中を屏風で仕切り、左右に別れ、三味線と出囃子の音楽が響く。そして先ほどの3人のどれかで屏風の前に出る。

 これはじゃんけんと同じようで、少し違う。勝負をするふたりはお互いが何に扮しているのか見えないが、お座敷にいる連中は丸見えである。その反応をよみながら、自分は何に扮するか決定していくのだ。仮に年若い舞妓が虎や老婆に扮すればお座敷から笑いが起こる。これを必死で読むのである。「空気の研究」だ。負ければこれまたお猪口の酒を一気に干す。動画を見て、すっきり理解していただきたい。最初の動画は説明を含むやや長尺なものである。





 ほかのお座敷遊びもある。
 一番最初に載せた「金毘羅船船」や、有名な「投扇興」などだ。

 金毘羅船船は、向かい合った二人のあいだに小さなお膳を置く。その上にタバコ箱程度の簡単につかめるものを置いておく。対峙したふたりは三味線とともにうたわれる「金毘羅ふねふね、追風に帆かけて、しゅらしゅっしゅっしゅ~♪」に合わせてお膳の上に置かれたものの上に互違いに手をかざしては引っ込める。この時、手をかざすだけでもいいのだが、手を引っ込めるときにものをもっていってもいい。その時、相手は手を開いてかざすのではなく、握って拳をつくらなくてはいけない。それだけのルールだ。

 
 
 以上見てきたように、祇園にはずっと受け継がれている伝統がある。しかし伝統と資本主義は必ずバッティングする。例えば、昔、舞妓になる年齢は10歳前後が基本であった。しかし今ではほとんどが高校卒業後になってしまっている。これは国の労働基準法と児童福祉法のせいである。それにより、舞妓になれるのは満15歳からと決まってしまった。しかし芸事というのは幼いうちから修練を積まないと、達人にはなれない。高校卒業後では遅すぎる。

 
 京都の伝統は、今の時代においても古めかしいということはない。艶なる伝統の見目麗しきに、とでも言いたい。しかし見えないところでは、伝統が古ぼけて形骸化しないよう数多くのマイナーチェンジが行われているであろうことは想像に難くない。

 
 
 小津映画の中に、こういう台詞がある。
 「私はいつまでも古くならないことが新しいことだと思うの」


 祇園にはもっとも古い伝統があり、しかしそこは最も新しい前衛的な場でさえある。
 
 伝統的前衛。前衛的伝統。