という言葉を、今、拝読ブログです。
是でjijikatura様の思いと
異なる事を連想というか
思い出しました。
こうしてブログを書くこと
これが上を目指すのか
それとも何の意味も無いのか
あるのか
それとも
ブログは人生の外周
であり、取るに足らないことなのか
フランクルという心理学者
人間性が自分は稀有な素晴らしいかたと
思っています、
彼の
『創造価値』が凄い発見と思っています。
彼の『意味への意思』も購読して読みました、
ファンですが
彼の人生の意味が人間に解明できる
という根拠について
疑わしいと思っています。
彼は
全世界、日本にもブームを巻き起こし
今でも
日本中で信奉され続けている
マズローの『自己実現』を批判しました。
自己実現がそれ自体
目的とされやすく
目的とされることは
人間の生きる意味へのフラストレーションに過ぎない
とても、もったいない人生の
指針になると言う風に批判です、
マズローも
晩年
自分の自己実現は誤っていたというか
超常思考 トランスパーソナルへの
準備の段階であった事を認めています。
さっき、しま爺様のブログ拝読ですが
これらの事柄を俯瞰されてる内容で
深いと感受です。
現代人は
抽象言葉だけで
物事を追っかけて
事足りる事
こんな浮世が皮相だという事
是は知識や学問や情報
を信奉することで
こうなるのですが
このわけを納得する事は
人類に不可能です
なぜなら
心が
いろいろ思う、考える心は
人類にふめいだからです。
仏教は
不明だという結論です
道教も同じです
ウパニシャッド哲学同じです
一神教とか汎神教の次元とは違う事が
西洋の思惟では理解不能です。
西洋の神は絶対物です、形而上絶対物です。
東洋の古代ではアニミズム、絶対神をかんじていたのは
世界中同じですが
仏教は絶対物を形而上絶対ぶつとしてはいません
庶民のレベルである神祇信仰の神々
インドの古代の神や明王の信仰は
高踏的思惟の流布敷衍の方便です。
絶対物をけいじじょうぶつとせず
東洋思惟は
ものの見方『観』を追求です。
観るとは見ると異なるのかどうか
観るのは心が観るのか
なにが観るのか
観るのは誰か、自分が見るのか
自分の身体が観るのか
心は頭なのか
足の先なのか
へその下なのか
是を追求しています
観る主体も観られる主体も
言葉では言い表せない
現代言葉の信奉世界においては
不明だということです。