珈琲館で再読

『魂を学ぶという事』の自分を

徹底的に

反省されていること


巻末の文を読んで

再読ながら

ため息が出る。


真実の追究は、こういうことだと。


とても、半端モノでは無縁である


このじじいなどにはと。


○末期医療の在り方

○脳死が臓器の売買に直結する事

○死の装置が無い社会である事


を自分は同次元の事といつも思っています。


他人の悲惨は真には関わらない

現世主義、効率主義の心だと思っています。


上の○を問題だから

論議していきましょうというのが

現代日本の姿です。


浮き世と調子を合わせて生きるのか

浮世と調子は合わなくても自分の独自の生き方を


この二つのどちらかのことで

論議などしても

どうにもならないと思っています、


自分の意見と

他人の意見が異なる、真逆の場合、

人間は合意できないと思っています、


合意できるというのが

浮世の建前です

是は現代民主制国家

であるかどうかに関わらず


合意できないなどと

言う人間は

どの時代にあっても

生きていく事は

困難になります

当たり前ですが。


合意が無理な人間社会だから

人間というものを

徹底的に

妄念の生き物であると

追求したのが


東洋の伝統です。


社会に生きる

お互いが

うまくいくためには

自分が矮小である事を

知ることであるという

風な事ですが


せいようりゅうは

今、自己実現です


大雑把に言えば


是でうまくいくはずが無いのです。


葬儀のことでも

今、きちんと

死に向き合っていて

日頃から考えがしっかりなさってる人

いらっしゃる


が、ごく僅かの方です。


人は人生観、死生観、世界観

現代ではさまざまです。

普通には

末期医療に直面してる本人

死に直面してる本人


の思いはいかがでしょうか。


この思いに

寄り添う事

とても至難な事です。


現代日本は

絶望的な事態に陥ってる人


を無視して

恥じない時代です。


死の装置が昔は機能していました

末期医療のスパゲッティーなど

昔は在りませんでした


新聞では能書きコイテルらしいです。

もっともらしい屁理屈で。


そんなことジャー無いです


他人の悲惨は

どうでもいいから


この問題は問題だと


これが

現代日本なのです。


自分たちが人非人の心を

持ってることだけは

絶対死んでも言わない。