何のことやら

気にもせず

今まで何度も繰り返し読む

鈴木大拙の著書で


今夕は

気になってきたところです。


宗教の

信じる、祈るを気にして


本を読み始めた爺ですが。


人が人を信じる


是はどういうエネルギーのもとで

ありえるのか。


西洋哲学では

サルトルは

自我のある限り

周りはすべて敵であるのが存在論の自然であると。

僚友のメルロポンティは

自己の人間を

主体と見るだけでは

サルトルのとおりですから

自己の人間を

主体客体の両義性を持つのだと


考究です。


日本の

親鸞の浄土と穢土のかかわりで

信じる

阿弥陀を信じることで

どうして

救われるのか、成仏できるのか

大拙が素晴らしい解説をしてくれています


相容れないモノが合一、一体となる

エネルギーは

親鸞の場合は

このエネルギーを横超といいます。


禅宗の場合は


見性でしょうか


相容れないモノは

そのまま二つある

横超も同じですが


人間の心の在り方が


隔絶したものを

隔絶したままで

かまわないけれど

同じもの(では無いけれど)

に思ってもかまわない

という気分になる事


これが

親鸞の場合は

安心決定であり成仏です。

禅宗の場合は

見性であり、身心脱落であり、無一物中無尽蔵です。


隔絶する

異なるものが

合一や一体となるには

物理学の考究

よく分かりませんが

ゼノンという学者が

あるものからあるもの

へは異なるのだから

絶対に連続は不可能だといったとか。


物理学者でも説明がつかないで

飛び越えるしかない

といったとか

不思議で面白い事と


爺は危機神学のどういうこと言ってるのか

興味が湧いた夕べです。

ご存知の方が

教えていただけたらありがたいです。