久しぶりに弟から。


連休に兄弟で集まろうという。


自分はいけない


いかない、


仲のよい自分ら兄弟と

思ってる。


末から二番目の自分は


兄弟の優れものの異端児で


兄弟もあきれてる。


弟もすぐ兄もお墓参り


きちんとやってるけれど


自分は関わりもしない。


仲がよくても


兄弟でも


こういうことの


異なりはどうする事も

不可能と思ってる。


むちゃくちゃな人生を


兄弟のうちでひとり送って


兄、姉、弟の気持ちもとても


理解よく分かる


当たり前だけで


この人間の生きて死ぬ


このことへの


思い方だけは


いくら話しても


分からないだろうと思ってる。


人間は不思議です。


人類は心が頭脳なのか心臓なのか

体全部なのか

足の先なのか

未だ不明です。


西洋流は不明では無い事にしています。

根拠を明確にできてる誰か

ひとりもいません。

解剖学的人間を対象にして検証です。


自分というかけがえの無い

自分の実存は

解剖学的に対象化してで分かる事は

不可能です。

『自分という人間の実存』と『誰でもいい一把一からげの

人間の実在』とはまるで異なります。


心のありかを


東洋思惟は問い続け

日本人の情緒は


伝統的に融通無碍

事事無碍である事が

何よりの伝統であったのに


今では

自分だけが正しい

他人を心のそこで

排除する

個人主義になっています。


宗教を西洋流で日本人は

現代捉えています、


日本人の宗教心は

『お天道様がいつでも見ている』


是に尽きるのに、

マスメディア教育によって

神祇信仰が宗教だとか

社会的建造物が、教団が

宗教だと思い込まされています。


制度、物、システムと

宗教心は

異なる次元の事です。


日本の憲法の宗教は

定義が不明です、

其の事さえきづかせない刷り込みが

敗戦後なされ続けました、


最高裁の少数意見が正しいですが(宗教事判では)

多数が通説であり正しいという

法解釈学で

日本は運営されています。