第百二十七話「罪に濡れるふたり(その36)」




拓人(ひろと)の父が所有する別荘は、海を見下ろす小高い場所にあった。

別荘周りはきれいに整地されていて、横の小道を上がって行くと、長年の潮風で切り取られたような切り立った崖が臨めた。

拓人に連れられてこの地を訪れた時、海が一望できる素晴らしい景観にも関わらず、私はその景色を見ようとはしなかった。

取り敢えず鷹司家の家を出て、一人になった実感を味わうのに精一杯だった。

何も考えない…

何も求めない…

ただ、ここで流れていく時間に身を任せて、呼吸するだけ…

そうやって過ごせば、何か見えてくるかも知れない。

それが、どんな結論を導き出そうとも、私はその生まれてくる思いに従おうと心に決めていた。

昼間はそう気にならなかった波の音が、夜になると風も手伝ってか、私の胸の中の薄汚いものを呼び起こすかのように襲ってきた…

ここへ来て数日は眠れない日を過ごした。

無気力な身体で、切り立った崖へと何度か足を運んでもみたが、生きようと強く願う気持ちもない代わりに、死んでしまいたいと思う気持ちにもならなかった。

そんな日を幾日も幾日も繰り返した。

繰り返していくうちに、月日はもう2ヶ月を過ぎようとしていた…


「…今日は何をしてるの?」


「あ、先生。今日は…本を読んで、ちょっとだけお昼寝をして…」


「昼寝ってことは、夜眠れなかった?」


「えぇ…ちょっとだけ…」


私は別荘を訪れた拓人に、微かに微笑んで見せた。

そんな私を見ながら、拓人も私に微笑み返した。

この場所に来て、少なくとも週に一度は、拓人が薬と食料品を持って来てくれた。

そして、他愛のない話の中で、正臣のこと、妙のこと…鷹司家の話をしていくのだった。


「今日はね…お客さん、連れてきたんだけど…」


そう言った拓人が、乗って来た車に視線を向けた。

それが合図だったのか、車のドアがゆっくりと開くと見慣れた姿が私の目に映った。


「…妙(たえ)!」


車から降り立ったのは、私が鷹司家を離れるまで、心配をしてくれた妙の姿だった。


「菜々子お嬢さま!!」


波の音にも負けないほどの妙の声が、私の耳に心地よく響いてくる。

たった二ヶ月の会えなかった月日が、とてつもなく長かったように感じられた。


「あれから少し、お痩せになられました?ちゃんと、お食事は召し上がってらっしゃいますか?お風邪などお召しになられたりしてませんか?」


私の顔を見た途端、息つく暇もなく妙は絶えず口を動かしている。

私は、そんな妙の姿を呆気にとられながら見つめていたが、終わりが来そうにないことを悟って、私は妙の名前を呼んだ。


「もう!妙ったら…そんなにいっぺんに答えられないわよ」


私の言葉に両手を口に充てた妙の仕草が可笑しくて、私は久し振りに声をたてて笑った。

妙は頭を下げながら、私の笑い声に苦笑している。


「そうそう…私がお嬢さまに一番にお伝えしたいことは、そんなことではございませんでした。実は明後日から旦那様と奥様と健吾様で数日間ですがご旅行に行かれることになりまして…」


「…それで?」


「幸いなことに四条先生も、その日はお手隙(てすき)だそうですし…正臣さまにお休みを取って頂いて、こちらへお連れしたいと思ってるんです」


「正臣が…ここに…?」


突然、現れた妙が、思いもよらぬことを言い出して、私を驚かせたが、知らぬ間に私の顔は満面の笑みに変わっていたのだった――




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