先日
心臓が止まった。
30分間死んでいたんだ。
という方とお話をさせていただきました。
死ってなかなか身近に感じられないです。
誰にだって訪れることなのに
どこか他人事。
私は、まだ。
大切な、あの人も、まだ。
まだ、、、
大丈夫。
どこか安心しています。
誰に保証してもらったわけでもないのに。
誰にもわからないのに。
その人と話をしてて
不思議な感覚でした。
なんで、この人と話せているんだろう。
もしも、発見が30分遅かったら
死んでいた。
とおっしゃっていました。
そんな、その人は
今生きていて
私の目の前にいて
お話をしています。
いつ、死が訪れるか誰にもわかりません。
でも、妙に、、リアルに
生を
死を
命を
意識したような気がしました。
自分の意思で
生きようって思って長生きできません。
私の命があるのは
何かのおかげです。
いとう眼科と出逢い
事務長からたくさん学ばせていただいていますが
その中でも大切なキーワードが
「生かされている」
でした。
自分一人では何一つ出来ていないことを
教えていただきました。
入社して間もない頃
「今着ている制服のボタン一つ
俺たちは作れないよね。
誰かが、やってくれているんだよね」
と教えてくれました。
今日の食卓にあった
野菜やお肉。
もとは、生きていた命ある生き物たちでした。
誰かが精一杯、愛情かけて育ててくれた
動植物です。
私と同じように
心臓が動き
肺が動いて
手足を動かしていたんです。
同じように
何かによって生かされている動物。
でも、私たち人間の都合で
殺す。
命を止める。
人間は寿命がわからないけど
家畜は違います。
私たちの都合で産ませたり
間引きしたり
食べごろだと判断し殺す。
自分たちの都合で柵を作り
水槽を作り
育て
食べる。
そういったところから
「生かされている」
という思いではなく
「自分で作っている、生きている」
というような
勘違いしてしまうのかなと思いました。
昨年の11月23日
「日本人の生き方」というイベントをしてくださりました。
当日を迎えるまでに
みんなで、過去の日本を勉強しました。
私の知識なんて
ほんの、触り程度ですが
今の不自由ない
平和な日本があるのは
誰かの犠牲の上
だということを教えていただきました。
ちょっと考えただけでも
たくさんの犠牲の上で
生かして頂いていると思えます。
なにか理由があって
今ここに立たせていただけています。
せめて
その恩に報いいる生き方をさせていただこう。
「報恩謝徳」
という生き方を教えていただきました。
そして、私たちには
なにか
あるはずです。
これだけ、たくさんの犠牲の中で頂いている命。
自分のために使うものではないって思います。
誰かを喜ばすため??
じゃあ
その人は、喜ぶために
生まれてきたの。。。?
何のために
生まれてきたの?
うーーん。。。
なんの為に???