筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

筑豊風土坊のブログ

筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

    旧国鉄 幸袋線 は 今  その6 ((貨物)枝国-日鉄二瀬炭鉱駅)



 (貨物)枝国駅までは 国鉄 の管理であった為 ある程度の資料がありますが 日鉄二瀬炭鉱(潤野炭坑)間は 鉄道路線としてあったのですが 弁分付近まであったと思われますが終点がどの付近であったのかは よくわかりません  現在の道路は 弁分交差点の東側 約170mでつながっています。  この鉄道および炭坑の事を お知りの方は お教えいただければと思います。

 潤野炭坑 現在 NHKの朝の連続テレビ小説 あさが来た でおなじみの 広岡浅子が  1886年(明治19年) 37歳で飯塚に来て 広炭商店として潤野炭坑事業を開始しています。 この事は 筑豊風土記 の 2015年6月 5・6日 に 豊近代化遺産 あさが来た 調査その1 と 広岡浅子と飯塚の炭坑 で 7月9日・7月26・27日の 3日間 広岡浅子と潤野炭坑 として記載しています。


 潤野炭坑の中でも書いていますが 前期 現在の嘉穂高校敷地 に 事務所・ 巻上機・その他の施設 があり炭鉱経営行われたのですが 後期に 現在の若菜小学校の場所 事務所は移り 坑道等はつながっていたといわれています。 


 現在の 若菜小学校の校門の前より 小正交差点 さらに 明星寺に進む道路は昔は 明星寺周辺の炭坑から掘られた石炭が 馬トロッコ 運ばれる 鉄路の道であったのですが 現在は 鉄路跡とは 感じられない道路となっています。


  この集められた 石炭が 若菜小学校前の道路・ 現在の市営住宅式の住宅地が 石炭積込場 でありその石炭を 東方に下った 引込線鉄道で 運んだということです。  昔の姿をほとんど残すことなく 道路となっています。


 若菜小学校の北方に大きな給水塔が 昔の潤野炭坑のボタ山跡です。 東方の遠方には、今でも 住友忠隈炭鉱の筑豊富士のボタ山 が 木々に覆われ ようやく 炭坑の歴史を知る事のできる 潤野炭坑跡(若菜小学) 付近からの 景色でした。


DF01 DF02
     (貨物)枝国駅・潤野炭坑付近                潤野炭坑付近絵地図

DF03 DF04
         現在の枝国交差点                 枝国駅から潤野炭坑現在道路

DF05 DF06
         現在若菜農協付近                   さらに現在の若菜付近 1

DF07 DF08
        さらに現在の若菜付近 2               さらに現在の若菜付近 3

DF09 DF10
    弁分付近まで現在道路となっています         枝国・若菜・潤野付近の炭鉱

DF11 DF12
          潤野炭坑と鉄道                   潤野炭坑の木犀巻上機


DF13 DF14
        潤野炭坑全景             日鉄二瀬潤野坑の記念碑(現・嘉穂高校構内)


DF15 DF19
      後期潤野炭坑石炭輸送路線 1           後期潤野炭坑石炭輸送路線 2                 

    
DF16  DF18
   後期潤野炭坑事務所付近(:現・若菜小)          明星寺への馬車トロッコ

DF17  DF20
明星寺・若菜小学校前に続く旧馬車トロッコ道    二瀬・枝国・潤野炭坑への鉄路古地図




 地図情報     貨物) 枝国駅   北緯   33度38分09秒   東経  130度40分22秒
          現在若菜小学校   北緯   33度37分38秒   東経  130度39分59秒 
          嘉穂高校巻上機   北緯   33度37分56秒   東経  130度39分47秒

          嘉穂高校記念碑   北緯   33度37分52秒   東経  130度39分47秒




 次回は、 旧国鉄 幸袋線 は 今  その7(川津信号場-伊規須駅) へ